特撮についてこれまで考えたこと
仮面ライダービルドが放送中であるためか、2月に書いた記事の閲覧数が毎週日曜日にだけ増える。ありがいことなのだが、かなりやっつけに書いた節もあるし、その後少し考えたこともあるので、このあたりできちんと整理しておきたい。
もう一つのブログの方は頻繁に更新しているんだけれど、もう一か月経ってしまっているなあ。
外部と内部
まず、特撮を考えるときに導入したいのは外部と内部という概念だ。特撮の必要不可欠な要素は「ヒーローが敵を倒す」ことだが、この「ヒーロー」というのは私たちとは違う。
私たちの形成する人間による社会を内部とするならば、襲ってくる敵は外部に属するということになる。ではヒーローは?
日本を代表する3種類の特撮ヒーローを挙げて考えると、三種三様だ。
まず、ウルトラマンについては、彼らは基本的には宇宙からやって来たヒーローであるか、太古から眠って来たヒーローである。よくよく見ると顔は人間的ではないわけだし、彼らははっきりと外部に属すると言っていい。では、なぜ外部の彼らが内部の我々を守ってくれるのか、これが難しい。基本的には「ウルトラマンは優しいから」ということになる。かなり不安定なその構造を支える仕組みが2つある。第一は、ウルトラマンに変身するのが内部に属する人間であるという点。第二は、ウルトラマンと共闘する組織が存在するという点。
次に、仮面ライダーについては、そもそもの仮面ライダー1号は、敵組織によって改造人間にされる途中で逃げ出した存在であり、内部とも外部ともつかない境界に存在することにその特質がある。平成Ⅱ期に限っても基本的に全ての仮面ライダーは、敵とその力の根源を共有している。現在放送中の「仮面ライダービルド」にしても、青羽を誤って殺してしまったのを泣きながら悔やんでいる様が描かれるなど、現在もその性質は忘れられていない。仮面ライダーは人間のために戦うことで、内部に存在し続けようとする(詳細は後述)。
最後に、戦隊ヒーローについては、特に意識されている視聴者が仮面ライダーより更に幼いこともあってか、内部の存在として描かれることが多い。一方で、「宇宙戦隊キュウレンジャー」でも地球人がキュウレンジャーに石を投げるシーンがあったように、時として突き放されるリスクは他の特撮と同様にあるわけだが、基本的には内部の存在としてあり続ける。
恣意的な正義
ウルトラマン然り、仮面ライダー然り、彼らは所謂「正義」を為さなくては外部に突き放されてしまうという遠心力が働いている。
例えばそのことは、「仮面ライダードライブ」第2話で主人公・泊進ノ介が仮面ライダードライブの変身者になることに逡巡するところや、「仮面ライダービルド」で執拗なまでに主人公・桐生戦兎が科学の平和利用を唱えるところなどに表出している。
「仮面ライダーで描かれているのは〝正義とは何か〟だろう」と言う人もいるのだが、実際にはそんな悠長なことは言っていられない。考える前に正義らしいことをしなくては、彼らは怪物と変わらなくなってしまう。
実際には特撮におけるヒロイズムとはかなり恣意的なものなのだ。
私闘性と公益性
特撮ヒーローの正義が恣意的なものであるから、その戦いは利己性を伴っているということになる。これを私闘性と呼ぶこともできる。これは特に平成1期に典型的に現れる。反対にこれは平成2期では公益性が前面に押し出されることで隠されている。
例えば「仮面ライダードライブ」の主人公は警察官、「仮面ライダーゴースト」の主人公は寺の御曹司、「仮面ライダーエグゼイド」の主人公は医師だ。
一方「仮面ライダービルド」は復古的に私闘性を帯びているとも考えられる。主人公が東都政府に与して戦うといった公益性はあるのだが、東都と北都・西都が争いを始めた後に行われた代表戦などは公益性を保ちながらも極めて私闘的な性質が見て取れる。
むしろ逆説的には時として利己的に行った戦闘がたまたま正義と目されるという偶然の正義性とさえ呼びうるような性質さえ持っていると考えられる。
メンターとそれを克服すること
仮面ライダーを見ていると父に関する話が多いことに気がつく。この父とは必ずしも遺伝子的な父を指すわけではなく、メンターと呼ぶべきような存在である。多くの場合はそれが男性である。
フロイトが言うように男児は同性の親である父親を殺すことで成長できる。殺すと言うのは「克服する」「超越する」と読み替えても良いはずだが、こうした場面はよく描かれる。
象徴的には、「仮面ライダードライブ」における仮面ライダーマッハの例がある。その変身者・詩島剛の父・蛮野はこの作品におけるラスボス的な立ち位置にいる。途中その父を信じてしまい裏切られる経験をする彼だが、最後にはその父を文字通り殺し、消滅させることになる。父を殺した剛は、その後、友人であるチェイスの消滅した魂を探して旅に出る。
成長物語としての仮面ライダーは、「父をどう克服するか」という形で表出する。
この性質は映画『アバター』にも共通してみられる*1ような普遍的な構造である。
これから
以上が、これまで特撮について考えたことである。
そしてこれから考えたいことは、以下の通り。
- 「仮面ライダードライブ」における外部性と内部性を体系的に見つめなおし、助力者組織として特状課の役割について考えたい。
- 「ウルトラマンコスモス」における外部性と内部性から、視聴者の参加可能性をどのように担保しているか、ナレーションの役割について考えたい。
他にも色々考えたいことはあるのだが、さしあたりはこの2つ。