「宇宙戦隊キュウレンジャー」について現時点での考察

本作品については、二度以降繰り返してこの作品を見るつもりはない。であるからタイトルに「現時点での」とあっても、これが恐らく最終的な考察になるだろうと思う。

さて、特撮には、特撮を知らない人から突っ込まれるようないくつかのポイントがある。ウルトラマンと、仮面ライダー・戦隊ヒーローではやや異なるが、後者ではこうである。

変身している時間なんてあるのか、なぜ最初から技名を知っているのか、そんなラッキーなことが続くものか。

いずれも、特撮を厳格に分析している者でも答えづらい問いである。「変身している時間なんてあるものか」については、「敵が気づかぬほど素早く変身している」という設定であったはずだが、それにしては戦隊ヒーローなどでは名乗りがあったりして、理解し難い。「なぜ最初から技名を知っているのか」については、もうそれはそういうものだから、と答えるより他にない。そして、「そんなラッキーなことが続くものか」。

この問いには妥当な理由がある。つまり、ヒーロー自身が強くなるためには、強い敵と出会い、挫折する経験をしなくてはならない。だからといって、挫折してやられてしまうとそこで話は終わる。そこで敵は、なんらかの理由をつけてヒーローを倒すことを止めなくてはならない。そこが「ラッキー」に見えるのだ。

さて、その「ラッキー」を逆手に取ったのが、このヒーローだったと思う。

「9人で救世主、キュウレンジャー」最後は12人であったが、黄道12星座と相まって、いかにもな展開であり、「キュウ」は「キュウ世主」と「球」に生き続けた。そこに不自然は無い。

もし彼らに不自然な幸運が訪れた時、ラッキーはこう叫ぶはずだ。「よっしゃラッキー!」

このセリフ自体には2つの意味がある。1つには、どんな小さな出来事をも「ラッキー」と呼ぶことで、いかにも凄いことであったかのように思わせるということ。2つには、どんな苦境にいても、それを「ラッキー」と呼び変えるということ。この2つは、似て非なるものなのだ。そして、本作においては後者が象徴的であったと思う。

もう一つ言うならば、この作品は、ある点で特徴的であった。それはメンバーの中に端から何らかの着ぐるみを着た仲間がいた点である。

実はこのメンバーを覗くと、生身の人間のメンバーは7人であり、例年より特に多いということはない。ただ、それ以外のメンバーが、宇宙と言う設定を借りながら、宇宙人やロボットと言う設定で登場すること、そしてそうしたキャラクターたちが何の区別もされず共に戦うこと、これには意味があるだろうと思う。

昨年、「ハリー・ポッター」シリーズを好む人々はマイノリティへの理解が進んでいる、との調査結果があったように思う。もちろんこれが因果関係によるものなのか、もしくは単純に相関関係を保つだけのものなのかは分からない。つまり、「ハリー・ポッター」からマイノリティへの理解を学んだのか、マイノリティに理解を示すような人々が「ハリー・ポッター」を好んだのかは分からない、ただそういう相関関係がある。

私はその現象よりも、このキュウレンジャーの方が好ましく思う。この作品内ではロボットや宇宙人はマイノリティとしてすら扱われず、あって当然、だからなんだという姿勢で受け止められ、最終回ではラプターのスパーダへの恋愛感情があからさまに描かれる。しかし、だから何だというのか。それを認めないような区別・差別の意識は不要のはずなのだ。

さて、この作品でゲキレンジャーから数年ぶりに戦隊ヒーローに復帰した私であるが、概ね変わらないところと、その新しさに感慨を抱いてばかりだった。そうした作品に、不意に出会えたことについて、やはりこう言うのが良いだろうと思う。

よっしゃラッキー!