『仮面ライダービルド』の備忘録

仮面ライダービルド』について、この作品が最終回を迎えた時に、自分が何を思い、何を考えたかの記録としての備忘録。映画は見ていないので、要するに本当のエンディングを見ていない? と言い始めると、はっきり言って仮面ライダーについて何か決まったことを言うのは無理。数年後に映画で掘り起こされたりするわけだし。

放送開始時点では、フォルムが『仮面ライダーW』そっくりだって言われたりしていたわけだけれど、それは当然で、どうやら『ビルド』自体が『W』の際のボツ案からできたらしい。となるとかなり嫌な予感もしていたのだが、『W』の焼き直し、となる危険だけは回避出来ただろうと思う。

さて一方で、特に平成ライダーの系譜とは「仲間」の系譜であると言っていい。当初は仲間を信じず殺し合っていたようなライダーは、時代を経るにつれて「仲間」を重んじ始めた。

もちろんそちらのほうが分かりやすい。その集大成は、学園の生徒全員と友達になることを目指す『仮面ライダーフォーゼ』の如月弦太朗で一応の集大成を迎えたと言えよう。けれど、それは本質なのか?

『フォーゼ』以前2作を考えたい。『W』では左翔太郎とフィリップが、一人として変身する。これはもう「仲間」とかいうレベルではなく、まさしく一心同体。『仮面ライダーオーズ』では、火野映司とアンクは、一応密接不可分である。

仮面ライダーにおける「仲間」とは、いわば友達を増やす、といったような方面にではなく、むしろ、(仮面ライダーとしての)自己を拡張するというような方向に伸びていく。

もしかするとそれはヒーローの必然なのかもしれず、『ウルトラマンメビウス』の終わりとは、まさしくウルトラマンメビウスの拡張であったわけだから、これが特別に珍しいというわけではない。

では、仮面ライダーを変身者以上に拡張すること、一緒に闘ってくれる友人を増やすこと、その間はないのか?

その探索は、例えば『仮面ライダードライブ』でも見られたはずだ。泊進之介とベルトさんは、当然一心同体として変身する。しかし、それでいて良き友人である。そのためか、最後の泊進ノ介とベルトさんの別れは、「変身できなくなる」という仮面ライダーとしての存在論的側面よりも、「友人と離れ離れになる」といった感覚が近い。似たところで言うと、アニメ映画版の『時をかける少女』だと思う。

しかしその後、『仮面ライダーゴースト』はやはり友人の拡張だったし、『仮面ライダーエグゼイド』も然り。その中にあって『ビルド』はどうか。

要するに桐生戦兎と万丈龍我の話をしたい。

万丈からすると、戦兎は、自らに冤罪を着せた張本人だと思われた。しかし最終的には万丈は戦兎に信頼を寄せ、共に「愛と平和のために」戦う。

「愛と平和のために」って、最終回を24時間テレビの裏番組として迎えたとは思えない、つまらないジョークみたい。

私は常々、仮面ライダーシリーズに向けられるべき命題とは、「正義とは何か」ではなく「ライダーはなぜ戦うのか」であると感じている。「正義」という、真善美の領域に属するようなことを扱うわけにはいかないし、所詮そこにある「正義」は脚本家にとっての正義でしかない。正義の相対性を言いたいのではなく、不確実性が問題となる。非絶対性などという言葉があるなら、それでもいい。

さて、では『ビルド』は「なぜ戦うのか」?

本当に「ラブアンドピース(愛と平和のため)」?

と考えてみると、畢竟、「仲間のため」のように思われる。

「仲間のために戦う」と言うと、なるほど陳腐なヒーローものか、と思われるかもしれないが、実は仮面ライダーにはその手の話が少ない。

というのは、仮面ライダーが戦う対象は、『W』の「風都」、『フォーゼ』の「学園」、『ドライブ』の「市民」といった形で、緩やかに幅が与えられ、抽象化されることが多い。一方『ビルド』については、ちょうど都合のいい指摘があるので、引いておきたい。

もちろん、『ビルド』の核は、戦兎と万丈の関係性にある。創られた空っぽの人間・桐生戦兎のアイデンティティ形成において、万丈は欠かせない。そんな万丈も、戦兎に明日を創ってくれた恩義を感じている。「互いに互いが必要」という、ブロマンスにも片足踏み込むかのような濃い友情物語が、間違いなく『ビルド』の真髄だ。

感想『劇場版 仮面ライダービルド Be The One』 戦兎の今と巧の過去が交差する「桐生戦兎の物語」 - ジゴワットレポート

 「友情」なり「仲間」なりを繰り返し描いてきた仮面ライダーも、そのために戦う、とまでは踏み込まなかった。「踏み込めなかった」と言ってもいい。それは恐らく、そうしてしまうとヒーローが「利己的な」「エゴイスティックな」存在に堕ちてしまうように思われるからではないだろうか。

しかし、よくよく考えてみれば、仮面ライダーは畢竟「正義のヒーロー」などではない。

仮面ライダービルドにせよ、仮面ライダークローズにせよ、彼らは「愛」だの「平和」だのを掲げながら、エゴイスティックにお互いのために戦う。「お互いのため」? むしろそれは、「自己本位」でしかない、「自分のため」でしかないのではないか。

仮面ライダービルドが何のために戦っていたのか?」──この問いは、存外に難しい。ではこれではどうだ? 「仮面ライダービルドは、何をビルドし(作り上げ)たのか?」

結論は「新世界」ということになるだろう。

戦兎は独り言ちる。「今度は俺しか記憶がないのか。」しかし、現実にはそうではない。

この物語とは、仮面ライダーが戦い私たちの世界を新世界にし、それによって私たちが10年分の記憶をすり替えられてしまった世界の物語、などではない。

この物語とは、私たちの世界について、あったかもしれない物語を、戦兎と万丈が語る物語であって、この点については最後に自己言及がなされている。

『ビルド』は、自己言及によって第1話と最終話が輪のようになることで、閉鎖した物語となった。しかし本来仮面ライダーシリーズは、「変身できなくなる」という形で閉鎖することが多いが、「閉鎖する」という点では仮面ライダーらしい。

さて、ここまで言って根幹を揺るがしてみよう。というのは、果たしてこの物語は「物語」だったのか? という点である。

先の甲子園で、優勝したのは大阪桐蔭だったが、多くの人々の「記憶」に残ったのは準優勝に終わった金足農業だろう。これは「大阪桐蔭だって頑張ってる」とかいう話ではなく、きっと仕方がない話だ。

私たちが金足農業を「記憶」し続ける限り、それは続く、かもしれないが、私たちがそれを「忘却」してしまったら? あるいは、私たちがみんな死んでしまったら?

残るのは「記録」であって、優勝の大阪桐蔭は「優勝」と「記録」されるだろうが、準優勝の金足農業はあくまで「準優勝」以上には「記録」されない。

何が言いたいかというと、歴史を作るのは「記録」なのか「記憶」なのか、ということであり、そして『ビルド』とは「物語」である以上に、「歴史」であったのではないかということである。

仮面ライダーを「歴史」にまでステップアップさせた、という点では、この作品は特異だろう。そうなると「人類の歴史は戦争の歴史」というのが、『ビルド』においては特に響く。

うがった見方をすると、『ビルド』は、戦兎と万丈が世界で二人だけになる物語だったのかもしれない。そこにおいて、それ以外の「仲間」は──もちろんヒロインであっても──そこからは排除される。「ブロマンス」とこれを呼んでも間違いではないだろうし、「ホモソーシャル」とも呼べるかもしれない。

さて、その時思い出されるのは、やはり『W』である。

『ビルド』は、『仮面ライダージオウ』が次に控えているとしても「平成2期」の終わりとして、曲がりなりにも有終の美を飾ったと思う。「平成2期」が『W』に始まり、『ビルド』に終わる、ということに、感慨を覚えずにはいられない。