仮面ライダーとウルトラマンの比較について、現時点の考察

日本にある種々のヒーローものを「特撮モノ」あるいは「特撮カルチャー」と呼ぶとして、一応その萌芽はウルトラマンに見られると思う。もちろんゴジラなどがそれに先んじるわけであるが、戦後日本の破壊を願う危険分子でもない限り、ゴジラにヒロイズムを感じることはないだろうと思う。

ウルトラマンのヒロイズム

そうしたわけで、ウルトラマンを近頃視聴し始めた。私も幼い頃、その頃はウルトラマンコスモスであったが、それにひどく熱心で、そこからレンタルビデオ店で過去のウルトラマンシリーズを借りたりしていたものである。

とは言うものの、昭和のウルトラマンの中で好きだったのはタロウで、平成ではダイナや時々ナイスであったから、そうしたところから、かなり色物が好きだったことが伺える。

ウルトラマンを見始めてみると、おそらく覚えてはいないが見たことがあるのだろう、設定やキャラクターには見覚えがある。一方ストーリーは、この年齢だからこそ分かることも多かった。

少なくとも現時点で視聴できている範囲では、ウルトラマンに登場する怪物というのは、人間活動によって生み出されたものが多いということだ。私の記憶にある平成のウルトラマンシリーズでは、既に宇宙人が攻めてくる、という構造のものが多かったはずだから、そこは大きな転換点だと言えよう。

仮面ライダーのヒロイズム

仮面ライダーは、その始まりからして、敵の改造人間の出来損ないであり、宇宙からの侵攻というような場合は少ない。むしろウルトラマンの初期におけるような、人間の業とも呼ぶべき何らかの活動が破壊を招く、ということも多い。特にここ数年の仮面ライダーにおいては、放送後半になると人間自身がいわゆる「悪」に身を落とすことを願うようになる描写もある。

例えば私が専門と自負する仮面ライダードライブにおいてはロイミュードの融合進化態がそれに当たる。それまでは人間の容姿・記憶・感情などをコピーするだけに留まっていたロイミュードであるが、後半には人間と融合するようになる。多くの場合それは人間自身が望んだ結果であり、ロイミュードを破壊してきた仮面ライダードライブも、その対応に苦心する。

他にも仮面ライダーエグゼイドにおいては人々が仮面ライダークロニクルというゲームを実際にプレイするという形で、仮面ライダーたちに対峙する存在になる。これも主人公らにとっては救わなければならない患者である一方、彼ら自身にはそのつもりがない、という葛藤も描かれる。

こうした具合に、人間活動が仮面ライダーに対峙する結果を招く、という構造を持つ作品は少なくない。

内部性と外部性

こうしたところで気が付くのは、内部性と外部性である。

ウルトラマンはシリーズを重ねるごとにその外部性を増していき、反対に仮面ライダーは内部性を保っていると言うことができる。

ウルトラマンは本来は宇宙からやってきたヒーローである。当初は人間の乗る飛行機と衝突して、半殺しにしてしまったから生命エネルギーを分け合う、というような設定であったはずだが、つまり外部からやってきた強力な存在が、その力を地球人に分け与える、という構造を読み解くことができる。あるいはそこに在日米軍と日本の関係を読み解くこともできるだろうが、今回はあえて避けたい。

しかしウルトラマンシリーズ当初では、敵自体は人間が生み出したものであった。内部性を保った存在だったのである。この不一致こそが、むしろ外部性への純化をもたらし、外部からやってきたウルトラマンが、外部からやってきた怪物を倒す、という構造が出来たのではあるまいか。無論、それだけでは、地球人とは全く関係ない外部の出来事になってしまう。これを地球につなぎ止める役割を果たしているのが、ウルトラマン科学特捜隊に始まる地球人の助力者の系譜であったと思う。

仮面ライダーではどうだろうか。いずれのシリーズも、基本的には内部の人間が仮面ライダーになる。しかし、初代仮面ライダーがそうであったように、仮面ライダーは内部の人間にはなりきれない。常に半身外部に接しており、内部と外部の境界、人間とも怪物ともつかないところに位置する。

であるからこそ、仮面ライダーシリーズではまま、作中において人間から仮面ライダーが疎まれるような部分が描かれる。仮面ライダードライブであれば指名手配を受けるシーンであり、仮面ライダーゴーストであれば「一度死ぬ」という設定自体がまさしくそれであり、仮面ライダーエグゼイドでは仮面ライダークロニクルがそれに当たる。

こうした具合に、ウルトラマンの内部性、及び仮面ライダーの外部性というのが、その特徴として挙げられる。

最後に、近年の仮面ライダーについて。近年、仮面ライダーの助力者が組織化される傾向にある。仮面ライダードライブのバッグには警視庁があるし、仮面ライダーゴーストには大天空寺の面々がついており、仮面ライダーエグゼイドは病院に勤め、そのバックには国家機関である衛生省がある。こうした具合に、助力者の組織化が進む。これはウルトラマンと似た構造である。つまり作品全体に、内部と外部にいる仮面ライダーを、強く内部に引き止めたい、という傾向があるのではないか。このことを今後の課題としたいと思う。

仮面ライダーの命題

基本的に私が取り扱うのは、仮面ライダーであり、その中でも特に平成2期である。ウルトラマンシリーズの変遷や存在論についても興味はあるものの、まだシリーズを見始めたばかりであって、何かを論じるに値するほどではない。

仮面ライダーが正義の味方でない、と言うことは、昭和ライダー企画当初から明らかである。むしろ彼らは、人類から怪物に接近し、人類からつま弾きにされた存在でありながら、あえて人類を守らなくてはならないという宿命を背負った危うい存在である。

仮面ライダーがその後どういった変遷を辿ったか、ということであるが、昭和ライダーが放送を終了してから、一度仮面ライダーは断絶を経験している。

その後、その断絶を乗り越え始まった平成ライダーについての分析や理解には様々な考えの差異があろうが、概ね、仮面ライダービルドの脚本家を担当なさっている武藤将吾さんのコメントが適当だろうと思う。

【脚本家・武藤将吾コメント】

 きっかけは、息子でした。偶然一緒に観たニチアサに衝撃を受けると同時に、これまで平成ライダーに触れてこなかった己を猛烈に悔やみました。

 それからというもの、クールかつハードな第一期に酔いしれ、娯楽性を追求した第二期に興奮し、気づけば平成ライダーを熱く語るオッサンになっていました。

 第19作。仮面ライダーの歴史の重みを真摯に受け止め、最大級の敬意を表すとともに、これまで培ってきたノウハウを活かして、子供も大人も燃える作品を志していきます。一年間、どうぞ宜しくお願いします。*1

第1期は、およそ子供向けとは思えないほどハードな内容であった。CG技術の導入も相まって、更に高度なSFの構築に挑戦し、おそらくは子供の想像力によってそれらが補完される形で、それを成し遂げた。

第2期は、「娯楽性を追求した」という形で温和に表現されているが、それはほとんど商業主義に傾倒したと言って差し支えない。

私が第2期、そして来るべきこれ以後の仮面ライダーを考察の題材として選ぶのは、何より、そうした商業主義の中で足掻く仮面ライダーアイデンティティを具に見届けたいという思いに他ならない。

専ら現状は、仮面ライダードライブの考察に時間を割いている。そもそも仮面ライダーの世界に自分が入り込んだきっかけであった。脚本家は三条陸仮面ライダーWの脚本も担当した。平成2期を取り巻く、三条陸の亡霊。もちろん三条陸さんは存命でいらっしゃるが、彼の残した作品、殊に仮面ライダーWの亡霊というのは、その後の仮面ライダーの形を大きく規定することとなった。

そうした、仮面ライダーはかくあるべしと定める目に見えない力、そしてそれを打ち破る。それを繰り返してきた仮面ライダーの経緯は、全ての文化的作品がそうであるように、独自であり、特別である。

その存在論は、前述の中で少し触れた通りである。例えばウルトラマンという存在は、M78星雲という遠く離れた場所からやってきた巨人の不安定な善なる心に頼るより他ないという側面がある。それを補完するのは、所謂科学特捜隊のような人間側の助力者であった。人間側も奮闘することで、ウルトラマンに守られるに足る存在であることを証している、複雑な構造である(やはりこれ以上は論じることができない)。

一方仮面ライダーは、そもそもがショッカーの改造人間として始まり、それでありながらショッカーに反旗を翻す。人間であるとは言えず、むしろショッカーに近いとしても、ショッカーを敵とすることで、やはり人間であろうとするのである。

それは平成2期のライダーの中にも、形を変えて受け継がれている。例えば、ライダーと敵の使う力の根源は同一である、というのが基本的なパターンである。それが全く同じ形態であるか、少し形態を異にするかは場合によるが、間違いない。

それに加えて、ではその力の根源とは何なのか、にまつわるストーリーも、平成2期を一層賑やかにさせる。そこから「欲望」という肯定も否定もし難い命題に向き合った仮面ライダーオーズ。「卓越した科学技術」と「人間性」という命題をとりこんだ仮面ライダードライブ。そうした具合に、仮面ライダーは進化と進歩を重ねてきた。

そして今、平成2期は、ついに終わりを迎えようとしている。その終幕を担うことになったのは、おそらく仮面ライダービルドで間違いあるまい。その物語の担う役割とは、昭和・平成1期・平成2期の総括と接続ではないかと思う。その意味でも、今再び、平成2期とは何なのかを総括する必要を感じている。