ルパパトは何かを誤ったのか

快盗戦隊ルパンレンジャーVS警察戦隊パトレンジャー」は当初2つの戦隊の対決、ということで注目を集めた。

この手の新たな挑戦は言わば「宇宙戦隊キュウレンジャー」にも見られたもので、単純に好ましいと思う。「仮面ライダー」シリーズがリバイバル重視になってきている一方、今後の戦隊モノの可能性を模索し続ける姿勢は評価されて然るべきところだろう。

一方、今「ルパパト」と検索すると「テコ入れ」と出て来たりする。どういうことかと言うと、どうやらパトレンジャーに与えられていた武器がルパンレンジャーに流れたりして、グッズの売れないパトレンジャーから比較的売れるルパンレンジャーへの比重の変化が露骨に見られるからだという。

その検証は他に譲るとしても、実際そうだろう、つまり警察側が怪盗側に比してあまりに強化されていない、という感覚はある。

朝加圭一郎とは何なのか

「パトレンジャーのグッズが売れない」というのとはかけ離れているように思われるが、毎週のようにTwitterを賑わすのは「朝加圭一郎」という文字であり、場合によってはトレンド入りすることも多い。

この空前の「朝加圭一郎ブーム」とでも言うべき状況を的を得た表現で言い表しているのが次の記事だと思う。

www.jigowatt121.com

自分自身、朝加圭一郎の「魅力」について考えてきたが、しかしそれが具体的にどういった要素なのか、ほとほと分かりかねるところがある。もはやこれは「朝加圭一郎」を一種の「概念」と見なすより他にない。

実際Twitter上ではこの「朝加圭一郎」が形容詞的に用いられている(厳密に言えば形容動詞的に、ということになるが)。「これぞ朝加圭一郎」などというとき、そこにあるのは「概念」としての「朝加圭一郎」にどれほど近いか、ということである。

この記事の中を見てみよう。

 

〔前略〕多くのフィクション作品で観てきた「直情型の熱血男」の属性を確かに持ちつつも、多様性を素で受け入れる懐の深さや、他者を無意識に尊敬し接する慎ましさというのを、この男は兼ね備えているのだ。泥臭くとも律儀。暑苦しくても柔軟。

「融通が利かない堅物」なキャラクターは王道だし、それはそれで警察戦隊のレッドとして間違いがない。ルパンレンジャーを正義の名の下に追い回す存在として物語を回すことができるし、「愉快が利かない」をコメディシーンに活かすこともできる。

しかし朝加圭一郎は、通常そういうキャラクターが持つ「融通の効かなさ」を、「不器用さ」とほのかな「鈍感さ」に置き換えている。〔中略〕

もはや「朝加圭一郎という服を着て歩く朝加圭一郎」としか言いようがない。

これは、『ルパンレンジャーVSパトレンジャー』の物語そのものの組み立て方にもあるのかな、と。

戦う動機として、圧倒的にルパンレンジャー側に(ドラマ的な)利があるので、パトレンジャー側が物語の比重として弱くなる可能性がある。そのため警察側は、朝加圭一郎をはじめとするキャラクターの魅力で物語を引っ張る作りになっている。

ドラマで物語の縦軸を構築するルパンレンジャーと、キャラクターで物語の横軸に緩急をつけるパトレンジャー。このふたつの面白さが交互に描かれるので、毎週30分番組とは思えない充足感がある。

パトレン1号「朝加圭一郎」という概念、及びキャラクター造形の絶妙なバランスについて - ジゴワットレポート

 この指摘が秀逸なのは、「概念」とまで化した「朝加圭一郎」というキャラクターを、ストーリー自体の可能性として読み解いている点だろう。

しかしなぜグッズは売れないのか

ストーリーには朝加圭一郎が不可欠だ、というのが先の引用から読み取れることだろう。確かにパトレンジャーの「正しいらしいことのために誤ったことをしなくてはならない」というジレンマを相対化するために、「正しいことを貫く」というパトレンジャーの存在は必要なのだろう。それにパトレンジャーには正体を隠さなくてはならない、というのも物語に大きな役割を担っているはずだ。

しかしグッズは売れない。なぜか。その答えは先の引用それ自体にあるのではないか。

つまり、「朝加圭一郎を見ているのは大人ばかりだから」ということになる。

朝加圭一郎というキャラクターはそれ自体、物語の進行に資するところがある。また、ルパンレンジャーの闇のようなものをよりハッキリとさせる光のような役割も担っているだろう。

例えば「仮面ライダー」シリーズは平成2期ではヒーローの光と影のどちらかを描いてきた。そのどちらをも描くことは、根本的に不可能だったからだ。

しかし本作、ルパパトでは闇を描こうとし、その陰影をはっきりとさせる光としてパトレンジャーが置かれる。そのとき注意を引くのは闇としてのルパンレンジャーだろう。

もちろん、ある程度年齢を重ねた人、特撮を見慣れた人であれば、一見注意を引かれるルパンレンジャーを一端差し置いて、パトレンジャーに目をやることができる。しかし主におもちゃを、グッズを買う──もとい〝ねだる〟──であろう子供達にそれはあまりに難しい。

子供達の中でこの物語は、例えパトレンジャーがいなかったとしても、ルパンレンジャーの物語として成立し得てしまうのだ。

「警察」は魅力的ではないのか?

しかし「警察」というのは子供に人気じゃないのだろうか、というのは当然の疑問だと思う。実際「特捜戦隊デカレンジャー」の場合はそれなりに人気だったように記憶しているし、その指摘もあながち的外れとは言えまい。

この「警察」がそれほど魅力的に見えないのは、そもそも「警察」が魅力的であるから、という逆説的な理由によるのではないだろうか。

私たちは「警察」が何をしているか知っているし、よほど悪い思い出が無い限りは彼らが一般に正しいとされる「正義」を司っているのだろうと認識する。言ってみれば何もしなくてもヒーローなわけで、それをそのまま切り取ったパトレンジャーは「なぜヒーローでなければならないのか」という正当性が薄い。

デカレンジャー」の場合は宇宙だの何だのと、私たちの知っている「警察」を土台に、「そうではない警察」を描くことで、それをヒーローとして魅せる必要があった。しかしパトレンジャーが「国際警察」であるからと言ったところで、それを改めて「ヒーロー」にして見る必要は感じられない。

一方ルパンレンジャーは、と考えれば、こちらは何といっても「怪盗」であるからして、「ヒーロー」となる必要がある。さもなくば彼らは「犯罪者」だからだ(もちろん「ヒーロー」であっても「犯罪者」なのだが)。この点は先の引用で「ドラマ的な利がある」と表現されていた部分だと思う。しかしあえて言えばこれはパトレンジャーに「ドラマ的な利が無い」という問題にも直結する。

どこへ行くのか

最後のまとめとして、期待して話の自分なりの結末を書いて、「こうなればいいな」と言ってみるのは簡単、なのだが、ここで容易に予想されるような結末は、結局陳腐なものになるはずだ。

であるからして、およそ想像もつかないようなエンディングを期待している。

おそらく近いうちのルパンレンジャーの正体がパトレンジャーにバレることになるだろう。しかし肝心なのはそこからだ。つまりパトレンジャーはルパンレンジャーにどのような思いを向けるのか、を、どのように描くのか、である。

結局それはルパンレンジャーに資することになるだろうし、ルパパトを見ている小さなお友達のルパンレンジャーへの見方に影響を及ぼすことになるのだろうが、もしかするとそこで「パトレンジャー、やるじゃん」と思うような子供達が出て来るかもしれない。今はそこに期待するより他にないと思う。一人の「朝加圭一郎」という概念に魅せられた者として一人でも多くの子供がはたとパトレンジャーの魅力に気が付くことを祈っている。