『仮面ライダードライブ』における「自己否定」のあり方について

はじめに

仮面ライダードライブ』をはじめとする平成2期について、かつて以下の通り指摘したことがある。

仮面ライダー」について知った顔して語る上では避けられないのが、『ユリイカ』中における白倉伸一郎氏の発言。即ち、仮面ライダーには「同族同士の争い」「親殺し」「自己否定」という要素が含まれるという考え方である。 これは初代仮面ライダーが敵組織ショッカーの、いわば出来損ないであるところから発生した考え方であるが、自らもショッカーの一員となるべくして作られたもののショッカーと戦わなくてはならないという「同族同士の争い」、自らを生み出したのがショッカーであることから「親殺し」、さらにショッカーを滅ぼすことを至上命題とすると、最後には自分さえも滅ぼさなくてはならないという点で「自己否定」という要素があるとされる。 平成2期になり、商業主義的側面が強化されていく中で、「同族同士の争い」は作品によってはかなり希薄化していった。さらに「自己否定」については、ほとんどの作品を除いて、特にここ数年来では描かれていないと言って構わないだろう。

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 今回は、この記述の訂正をしたい。と言うのも『ドライブ』における「自己否定」のあり方の可能性を見出したためである。

平成2期における「自己否定」

仮面ライダー」シリーズ平成2期における「自己否定」は、ほとんど取り扱われてこなかった。しかし、それは必ずしも「全く」ということではない。

本来『仮面ライダー』においては、「自己否定」とは、ショッカーを倒すことは、ショッカーによる改造人間である自分を敵と見なすことになる、という意味合いを持つ。少なくともその後改造人間というモチーフが取り上げられなくなると、この「自己否定」は、敵とライダーの能力の根源の通底という形で現れた。

例えば、『仮面ライダーオーズ/OOO』においては、変身に必要なコアメダルは敵の本体であり、敵を否定するためには、自分の変身すら最終的には否定しなくてはならない、ということになる。

ただしこれが「自己否定」を貫徹したと見なすことが難しいのは、敵グリードはコアメダルだけでなくセルメダルがなくてはならないため、コアメダルの論理だけでは完全な「自己否定」とはなり得ない点である。

この点は、主人公の火野映司が、当初は無欲な人間でありながら、戦いを通じて「欲望」を知る。それでもなお「欲望」を否定しきれない、という葛藤を「自己否定」に仮託する。

『ドライブ』と同じ三条陸による脚本の『仮面ライダーW』において、最後は「変身するとフィリップが消えてしまう」という設定を持ち込むことによって、この「自己否定」を成し遂げた。このガイアメモリの数が、おそらくアルファベットの個数を最大数とするのだろうという想定によって、その後仮面ライダーWが変身できなくなる可能性は示される。

『ドライブ』において

『ドライブ』における「自己否定」は一般的にどのように表現されるのだろうか。ここでは2点を提起しておきたい。いずれもその根底にあるのは「科学」である。

第一に、「非人間」と置き換えられるような「科学」は仮面ライダーたちにも、ロイミュードたちにも通底する。なぜなら仮面ライダーは科学の力を使って変身し、限りなく人間から乖離した存在でありながら(特にドライブは、ベルトさんと変身する上に、タイプトライドロンでは人格がベルトさんに乗っ取られさえする)、人間のために戦うのであり、ロイミュードは科学的に製造された存在でありながら人間に近づきたいのである。

つまりロイミュードの「非人間性」あるいは「科学」を否定すれば、それはそのまま仮面ライダーを否定することになってしまい、一方、その「人間性」を評価すれば、それが欠落する仮面ライダーが否定されてしまう、という「自己否定」が用意されているのだ。

第二に、泊進ノ介が最後にベルトさん(クリム・スタインベルト)の思惑を察するシーンである。つまり、泊進ノ介は最後の戦いを「ベルトさんと別れることになるだろう」という予感と共に戦っていたのである。戦いに勝つと仮面ライダーには変身できなくなる、という「自己否定」が伴っていたことになる。

ドライブ以外のライダーについて言えば、仮面ライダーチェイスはその存在を犠牲にして蛮野と戦ったのだ。

この予感は『W』と同じではないか、と思われるかもしれないが、そうではない。『ドライブ』においてはロイミュードの数は108と明言され、その108を撲滅することが主人公たちの至上命題なのである。その108が終われば、自然、変身できなくなるかもしれないという予感はこの作品を包み込んでいる。それを泊進ノ介は確かに感じており、それは何より、泊進ノ介とベルトさんの友情がもたらした感覚である。この点で、実は『W』よりも「自己否定」は発展的に描かれているのである。

おわりに

仮面ライダー』における「自己否定」は確かに重要な要素でありながら、まるで忘れられて来たかのような感覚さえある。しかし『ドライブ』においては、「自己否定」は確かに生きていたのである。