「ヒロイン」と仮面ライダービルド

 『仮面ライダービルド』に書くのは、第三弾になる。

実際には『ビルド』を通して、「仮面ライダー」シリーズの平成2期を、ひいては特撮全体を俯瞰しようという試みでもある。

第一弾の「「父」と仮面ライダービルド」冒頭にも少し書いたが、この「父」「国家」「ヒロイン」というテーマは、いずれも家父長制的な、いわばフェミニズム的な視点からは共通している。

「国家」というものが、訳語の示す通り、まさに「大きな家族」として存立し、その中で我々は「父」の姿を認める。その中にあって「女性」の持つ、或いは果たしうる役割は極めて限定的であって、いずれも実際には密接不可分に連関しているはずなのである。

少女はヒーローになれるか

仮面ライダーは、女児に参加可能性が開かれていない点で極めて閉鎖的なヒーローである、という点は、そのほとんどが、想定する視聴者が男児であって、特に性差に意識が向きだす彼らは一種ミソジニー的な感覚を持ちうる、というところから説明が可能であろうと思う。

少女がヒーローに変身できた試しはかなり少ない。記憶に残る限りでも『仮面ライダーフォーゼ』における仮面ライダーなでしこであるとか、『仮面ライダーエグゼイド』における仮面ライダーポッピーであるとか。

この仮面ライダーたちを評価してはいけないのは、いずれも「人間ではない」ので、女児への参加可能性はあくまで閉ざされているだろうという点。なおかつ、仮面ライダーなでしこは映画にしか登場しないし、仮面ライダーポッピーは、戦闘するというより、あくまで他の仮面ライダーが登場するまでの時間繋ぎ的な役割が大きい。

では少女は仮面ライダーになれないのか。

この、いわば参加可能性が極めて閉鎖的である、というところは、実は「女の子」に限った話ではない。

平成1期が、いわば闇を抱えたダークヒーロー的に始まった。それが徐々に転換してきたものの、やはり大きく転換したのは平成2期の最初の作品『仮面ライダーW』だろう。『W』は、それまでの典型的な仮面ライダー像を「ハードボイルド」とした上で、主人公・左翔太郎を「ハーフボイルド」と呼ぶ。

この時点で、平成2期から子どもたちに対する参加可能性は一気に大きく開かれた。そのことは、平成2期が商業主義的とされ、小さなグッズを薄利多売的に売る戦略を始めたことにも象徴的である。

仮面ライダー自体がソフトな方向に傾いていく。それだけが参加可能性の担保ではない。

助力者の組織化

外部の存在である仮面ライダーは、そのままだと我々「内部」から排除されるだけの存在になってしまう。それを接続する役割を担うのが助力者である。ウルトラマンで言えば科学特捜隊がそれにあたる。

ヒロインはいわばこの「助力者」であったが、『W』以後はそれが「戦うヒロイン」の色を増してきた。

それが象徴的に結実したのが『フォーゼ』における仮面ライダー部であって、仮面ライダーすらこの一部活内に包括し、「変身せずに戦う」という形で参加可能性を担保したのである。

それが『仮面ライダードライブ』になると、ヒロインの詩島霧子は明らかに「仮面ライダードライブになりたがっていた」との描写があるし、キック力が強化される靴を与えられて「ライダーキック」をかますシーンもある。

つまり、「ヒロインも仮面ライダーになれる」という命題は、ほとんど諦めた形で、むしろハードなヒーローへ抵抗を感じていた男の子たちと共に「変身しなくてもライダーと共に」という形で子供達を広く包摂する仕組みが出来上がった。

やはりその起源は遡ると『W』における「二人で一人の仮面ライダー」という、「変身者の複数可能性」とも呼ぶべき、即ち「君たちもライダーを応援してくれ!」的なメッセージに信頼感を与えるような構造に見出すことが出来るだろう。

『ビルド』ではどうか。

さて翻って『ビルド』を考えてみると、やはりこの女の子の参加可能性が閉ざされている、という普遍性は共通するように思える。

ヒロインと言えば、石動美空か滝川紗羽になる。

美空の方は、父がエボルトに乗っ取られることで、一時的に「父殺し」の宿命を異性ながら背負わされることになる。基本的には守られるだけの存在であるが、しかし彼女にベルナージュがとりついており、彼女がピンチを救うときもある。

しかし、美空がネットアイドルとして活躍するところを、つまり「女性性」を商品として扱うところを見ると、顔をしかめざるを得ない。

一方紗羽の方も、彼女自身はスパイなわけだし、特に氷室幻徳にホテルに誘われるなど、やはり「女性」としての側面が、不必要な方向に強化されているように見えなくもない。

もちろん共通の場所で一種のチームを結成し「一緒に戦う」的な構造を持つのは違わないのだが、その細かいところには、実際にはやはり女児の参加可能性を閉ざす側面も認めざるを得ない。

まとめに

仮面ライダー」という作品群は、もしかすると戦後民主主義を背負ったヒーローなのかもしれない。特撮は、原爆を揶揄した『ゴジラ』の系譜にある。それはヒーローものにしても同じで、「ヒーローとして戦う」ながらも「平和を願う」という矛盾を、「戦わなくなったらヒーローではない」という運命と共に抱える存在として「仮面ライダー」が存立してきたはずなのだ。

しかし『ビルド』はそうではなかった。

『ビルド』には「国家」という動機付けがなされた。「親殺し」という、家父長制を否定するような仮面ライダーの命題と合わせて考えても、あまりに非仮面ライダー的な要素であった。

そのうえ、「仮面ライダー」が試行錯誤の上に築き上げてきた「変身しなくても共に戦う」という助力者のメカニズムを、一方的に守護されるだけ、或いはボトルを生産する生産者としての役割を担わされる形で破綻させてしまっている。

『ビルド』はそれ自体『W』の焼き直しの感がある。しかしながらそれだけでなく、この作品を「優れた仮面ライダー作品」として認めるのにはあまりに障害が多いと感じる。