入門「仮面ライダードライブ」論

はじめに

仮面ライダードライブ」は2014年10月から、翌年9月に渡って、計48話が放送された特撮番組である。放送終了から3年が経過しようとしている。毎年新たな作品が放送される「仮面ライダー」の歴史にあって〝3年〟というのはあまりに長い。

日本のドラマは商業主義的である所以もあって、時間が経過すると、その記憶は失われていく。多くの名作とされるドラマが長い間語り継がれるアメリカやイギリスとは違う。特撮では殊にそうである。その中であえて、「仮面ライダードライブ」という作品について、その構造を分析し、価値を付与することには意味があると思う。

そのために概説的に本作品を語りたいと考えているが、さしあたりはそのドラフトとして本稿を記す。

1.仮面ライダードライブとは何か

仮面ライダー」シリーズは、1971年4月に放送を開始した「仮面ライダー」から連なるシリーズである。そのシリーズは、普通「昭和」「平成1期」「平成2期」に分けて説明されることが多い。

「昭和」ライダーとは、「仮面ライダー」(1971年4月~1973年2月)、「仮面ライダーV3」(1973年2月~翌年2月)、「仮面ライダーX」(1974年2月~同年10月)、「仮面ライダーアマゾン」(1974年10月~翌年3月)、「仮面ライダーストロンガー」(1975年4月~同年12月)、「仮面ライダー(スカイライダー)」(1979年10月~翌年10月)、「仮面ライダースーパー1」(1980年10月~翌年9月)、「仮面ライダーBLACK」(1987年10月~翌年10月)、「仮面ライダーBLACK RX」(1988年10月~翌年9月)を言う。

全部で10作品であり、最後の「仮面ライダーBLACK RX」の放送終了は1989年ということになるが、この年は平成元年。平成元年ということは昭和64年と重複するという言い方もできるのだが、それでもなおこの作品が「昭和」ライダーに算入されるというのには深い事情がある。「仮面ライダー」シリーズの〝断絶〟である。

仮面ライダーBLACK」以後、次の「仮面ライダー」は、2000年の「仮面ライダークウガ」を待たなくてはならない。この10年に及ぶ断絶は、仮面ライダーに大きな影響を及ぼした。

その断絶の後、「仮面ライダークウガ」(2000年1月~翌年1月)以後、「仮面ライダーアギト」(2001年1月~翌年1月)、「仮面ライダー龍騎」(2002年2月~翌年1月)、「仮面ライダー555」(2003年1月~翌年1月)、「仮面ライダー剣」(2004年1月~翌年1月)、「仮面ライダー響鬼」(2005年1月~翌年1月)、「仮面ライダーカブト」(2006年1月~翌年1月)、「仮面ライダー電王」(2007年1月~翌年1月)、「仮面ライダーキバ」(2008年1月~翌年1月)、「仮面ライダーディケイド」(2009年1月~8月)と作品が続く。

この10作品が「平成1期」としてグルーピングして語られるのは、最後の「仮面ライダーディケイド」が前の10年を振り返る形で制作されたいわば〝総括〟的性格を持ち合わせているからだ。

この「平成1期」は、前10年の断絶を経験しているからこそある命題と向き合わざるを得なかった。それは、「いかにしてこの作品を「仮面ライダー」たらしめるか」ということである。

これは、漫画で言えば『亜人』『いぬやしき』に見られる問題意識である。物理的存在が消滅ないし丸きり入れ替わってしまっても尚、その存在はアイデンティティを保っていると言えるか。より具体的に言えば『亜人』は殺されても死ぬことは無い。それでも殺された後のその人物は同一人物と言えるのか。『いぬやしき』はある日機械の体を手にし、物理的継続性が失われた状態でも「私は私」であると言えるのか。

高校倫理でも、アイデンティティという語を説明する時に、「細胞分裂が行われ数年前の自分と今の自分が物理的には一致しなくても自分を自分たらしめるもの」という解説を行うことがある。しかしこれには決定的な無理がある。なぜならこの場合、あくまで「私」は継続して意識を保ち続けているのである。

本当にアイデンティティが試されるのは、むしろそれが〝断絶〟した『亜人』や『いぬやしき』的な状況であり、それと同じことが「仮面ライダー」でも起きた。

強い「仮面ライダーを作ろう」という意識と共に、それが10年前の作品と全く同じであってはいけない、という難しさの中に平成1期はあった。

その後、「仮面ライダーW」(2009年9月~翌年8月)、「仮面ライダーオーズ/OOO」(2010年9月~翌年8月)、「仮面ライダーフォーゼ」(2011年9月~翌年8月)、「仮面ライダーウィザード」(2012年9月~翌年9月)、「仮面ライダー鎧武/ガイム」(2013年10月~翌年9月)、「仮面ライダードライブ」(2014年10月~翌年9月)、「仮面ライダーゴースト」(2015年10月~翌年9月)、「仮面ライダーエグゼイド」(2016年10月~翌年8月)、「仮面ライダービルド」(2017年9月~)と続く。これが「平成2期」である。

「平成2期」は、一度〝総括〟が行われた「平成1期」からの連続性は担保されつつ、そこにオリジナリティを加えなければならないという問題意識の中で、かつ〝商業主義〟という側面も強調されてくる。この〝オリジナリティ〟は、例えば特撮経験のない脚本家に脚本を担当させたり、あるいはそのフォルムにユニークなものを採用することで発現される。

こうした「昭和」「平成1期」「平成2期」について、この3つを総括的に語ったものとして「仮面ライダービルド」の脚本家を担った武藤将吾氏のコメントがある。

【脚本家・武藤将吾コメント】
 きっかけは、息子でした。偶然一緒に観たニチアサに衝撃を受けると同時に、これまで平成ライダーに触れてこなかった己を猛烈に悔やみました。
 それからというもの、クールかつハードな第一期に酔いしれ、娯楽性を追求した第二期に興奮し、気づけば平成ライダーを熱く語るオッサンになっていました。
 第19作。仮面ライダーの歴史の重みを真摯に受け止め、最大級の敬意を表すとともに、これまで培ってきたノウハウを活かして、子供も大人も燃える作品を志していきます。
 一年間、どうぞ宜しくお願いします。*1

 「平成1期」はかなりハードな作品となったが、これは「昭和」の中から「仮面ライダーは正義のヒーローではない」的な側面を強調して制作されたからで、「平成2期」はその商業的可能性がパターン化されることで娯楽的になった。「平成2期」では「いかにして仮面ライダーを正義のヒーローたらしめるか」という側面があるが、これには当然「仮面ライダーは正義のヒーローではない」という前提があるのである。

「平成2期」の始まりを飾った「仮面ライダーW」は、現在でも名作と名高いが、その脚本を担当した三条陸氏が再び脚本を担当したのが「仮面ライダードライブ」である。だからこそこの作品は「平成2期」的側面が強い。

「平成2期」は、後期になるほど「仮面ライダーを正義たらしめる」ためのメカニズムが定型化されていく。実際、「仮面ライダードライブ」に続く「ゴースト」は、ストーリーの大枠やライダーの数まで、きわめて「仮面ライダードライブ」的と言える。

仮面ライダー」シリーズとは、その始まりからして特異であった。主人公・本郷猛は、敵のショッカーに拉致され改造人間にされかけた。しかしその途中で抜け出すことに成功した彼は「完全な市民(内部者)」とも「完全な敵(外部者)」ともつかないマージナルな存在である。この不安定な性質こそ、「仮面ライダー」を構成する重要な要素の一つである。

仮面ライダーとは、内部とも外部ともつかない境界にある。しかし仮面ライダーには遠心力が働く。そのままでは仮面ライダーは敵と変わらなくなってしまう。その仮面ライダーを、あくまで内部に──それが境界であっても──内部に引き留めようとするための構造が2つある。

第一に、仮面ライダーはいつも〝正義的〟に振舞う。それが本当に〝正義〟であるかとは別にして、〝いわゆる〟という枕詞付きの〝正義〟であろうとする。つまりそれはかなり利己的な性質を兼ね備えているのであり、自らの存在のために戦うという点では、仮面ライダーの戦いとは〝私闘〟的であると言うこともできる。

第二に、仮面ライダーには助力者がいる。仮面ライダーを助けるものたちは大概〝市民〟的である。殊に「平成2期」では、その助力者が、例えば本作における「特状課」であるとか、「大天空寺」という形で組織化されている。これも特徴のひとつである。

さて、本作──つまり「仮面ライダードライブ」においてはこの「内部」「外部」というロジックはどう表出しているのか。

「内部」が市民、「外部」が敵という構造を取り出せば、本作では「内部」が人間性、「外部」が非人間性に象徴されることが分かる。敵であるロイミュードは「人間になろう」とした機械生命体だったからだ。

しかしそうするともう一つ気が付くことがある。それは、仮面ライダードライブの変身のために必要な「ベルトさん」、つまりクリム・スタインベルトは人間であったはずだが、ベルトの中に取り込まれることで機械化されており、敵の蛮野も元は人間だったはずが、最後はかなり機械的になってしまっているということである。

つまり「仮面ライダードライブ」の特異性とは、内部と外部とマージナルな仮面ライダーというだけではなく、その内部と外部が極めて流動的であること、あるいはその融解が見られることにあると言うことができるのである。

2.グローバルフリーズ論

本作は、かつてロイミュードによって世界が恐怖に陥れられたグローバルフリーズから語りはじめられる。

人間が、利用しようと開発した非人間によって蹂躙される、という地位の逆転が、ある一晩起こる。これこそがミハイル・バフチンが指摘した「カーニバル」であると言える。

しかし、このカーニバルが、基本的には下位者が上位者に勝利し堕落した上位者を嘲笑するという形で起こるのと比べれば、この作品は、上位者のはずの人間が下位者のはずのロイミュードに敗北し嘲笑される、という受動的な形で始まることになる。結果としてそこにあるのは〝嘲笑〟ではなく、むしろそれを向けられる〝恐怖〟であり、その〝恐怖〟を克服するためにこの物語は起動する。

3.仮面ライダー存在論

さて、そのグローバルフリーズの際に人間を守るために戦ったのが仮面ライダープロトドライブだった。その変身者はチェイスであり、彼はロイミュードである。つまり、非人間である彼だけは、非人間のロイミュードが逆転するグローバルフリーズにあってなお、戦うことが出来た。

しかし、そんな仮面ライダープロトドライブにも弱点がある。彼はロイミュードを消滅させることができないのだ。それはなぜか? もちろんそのような機能が無かったから、という設定であるが、そもそも彼にロイミュードを消滅させることはできない。彼はあくまで非人間たるロイミュードの〝同位者〟であって、それに優越する〝上位者〟ではないからである。

だからこそ仮面ライダードライブは、その後ロイミュードを消滅させることが出来る。彼は上位者たる市民と完全な〝同位者〟ではあり得なくても、ロイミュードの〝上位者〟である。

そして、その仮面ライダードライブのマージナルな側面が強調されるのが、タイプトライドロンである。そもそもバイクに乗らず、車に乗る仮面ライダードライブは、バイクで無かったとしてもその「乗り物」と強い関係を持つことに特異性がある。そしてタイプトライドロン──つまり、トライドロンという〝車〟と共に戦うというのも、その象徴である。*2

しかし、そのタイプトライドロンを身にまとうということは、ベルトさんと共に戦うことを意味する。そしてかつては生きた人間であったクリム・スタインベルトも、機械化され保存された現状では、あくまで非人間に近いと言える。

人間である泊進ノ介と非人間になってしまったクリム・スタインベルトが共闘するタイプトライドロンこそ、そのマージナルな仮面ライダードライブを象徴しているということが出来る。

 4.特状課の存在論

 仮面ライダー平成2期における大きな特徴の一つとは、仮面ライダーを補佐する役割を担う人々が増え、更に組織化される傾向である。

仮面ライダーW」は、その所属組織さえ小さな探偵事務所であるものの、地元の警察もそれに協力する形をとるし、「仮面ライダーフォーゼ」は仮面ライダー部が学園内において重要な役割を担うのみならず、その部室が月面に設置されることで、作品の縮小した世界観を拡大する役割を引き受けている。

仮面ライダードライブ」においても、主人公・泊進ノ介が属する特殊状況下事件捜査課は、警視庁刑事部の下に置かれた組織であり、ロイミュードの犯罪(機械生命体による犯罪)への対処に重要な役割を担う。

もちろんこれ自体が仮面ライダーの地位を確固たるものにし、公権力の犬になったわけでないことは、その後、変身を禁じられ、或いは指名手配さえされることに象徴される上、この特状課が桜田門の警視庁舎ではなく、おそらく特別区外にあるであろうことからも分かる。

特状課の面々に関して忘れてはならないのは、詩島霧子である。もちろん彼女は二号ライダーの仮面ライダーマッハに変身する剛の唯一の肉親であるという点でも大切だが、仮面ライダーにしては珍しく、泊進ノ介とのコミカルな恋模様を演じる点でも特別な地位を占める。

5.ロイミュード存在論

ロイミュードは、前述の通り、機械生命体であり、作中における非人間性の象徴的存在である。仮面ライダーにおいて、ライダー(ないし市民)と敵の距離の近さはまま問題になる。

象徴的には、仮面ライダーオーズにおいて変身に用いられるコアメダルとはそのまま敵幹部グリードの本体を意味するし、仮面ライダーオーズは、グリードやヤミーが人間の欲望からセルメダルを抽出するのを阻止するために戦う。つまりこの作品における〝悪〟の根源とは欲望、ひいては人間そのものであって、軽はずみにこの〝悪〟を否定することは、そのまま〝人間〟を否定することに繋がりかねない。

ロイミュードも機械生命体であるが、一方、仮面ライダードライブに変身の能力を与えるベルトさんも同様、機械でしかない。その中で一足飛びにロイミュードを悪と断じ、或いは仮面ライダーを正義と見なすことを妨げている。

ロイミュードのその目的は、最終回直前に近づいてくるにつれて「人間に近づこうとした」ということなのだろうと明らかになるが、それとは対照的に蛮野は「人間から離れていく」。

最後には〝親友〟の魂を追い求めて旅に出ることになる詩島剛に関して言っても、そもそもチェイスロイミュードなのであって、ロイミュードを悪と断じられない構造が明らかになる。

6.父親の存在論

仮面ライダーにおける父親、ないしメンターの存在は非常に重要である。多くの作品で〝父〟をどう扱うか、どう乗り越えるかというのは大きな問題だ。

仮面ライダーゴースト」の第一話は、主人公・天空寺タケルが敵に殺されるも、父の能力で限定的に生き返ることに成功するところから始まり、最後には父の能力を離れて自力で生きることを目指す。

この手の、父の手、或いは〝呪縛〟から離れるようなストーリーが、「仮面ライダードライブ」にも見られる。

泊進ノ介の父親がロイミュードに殺されたらしいと分かった後、冷静さを失った泊進ノ介であったが、それを乗り越える形で手にしたのがタイプトライドロンというフォームである。

それだけでなく、詩島剛の父親は蛮野であるが、親友を失い、蛮野を殺すことができたのは、やはり息子・詩島剛本人より他にいなかったというのが、象徴的にこの〝父親〟の役割を示しているのではないかと思う。

7.仮面ライダードライブは誰のために

仮面ライダードライブ」は、「バイクに乗らない」ことで話題を得た作品であった。

しかし思い返せばその前数年の仮面ライダーは、もうほとんどバイクには乗らなくなっていたのだし、〝愛車〟に乗るというだけでもまだ〝ライダー〟たりうるのではないかと思われる。

そしてその構造は、典型的な仮面ライダーの構造を保ちつつも、その内部と外部が融解するという特殊性を持って、「仮面ライダー」シリーズ中でも特に輝きを放っているのである。

*1:ニュース|仮面ライダービルド|テレビ朝日

*2:過去数年の作品では、「仮面ライダー」を冠しながらもバイクに乗ることが軽んじられ、「仮面ライダーフォーゼ」ではバイクで宇宙にまで飛び立つ有り様である。他作品でも、単なる移動手段として以上の意味を持たなくなってしまっていた。