仮面ライダーと外部性、恐怖の論理

本ブログの拙記事(仮面ライダーとウルトラマンの比較について、現時点の考察 - 特撮の論壇)中において、仮面ライダーウルトラマンをその外部性と内部性に着目して比較した。ここにその記事の一部を引用する。

こうしたところで気が付くのは、内部性と外部性である。

ウルトラマンはシリーズを重ねるごとにその外部性を増していき、反対に仮面ライダーは内部性を保っていると言うことができる。

ウルトラマンは本来は宇宙からやってきたヒーローである。当初は人間の乗る飛行機と衝突して、半殺しにしてしまったから生命エネルギーを分け合う、というような設定であったはずだが、つまり外部からやってきた強力な存在が、その力を地球人に分け与える、という構造を読み解くことができる。あるいはそこに在日米軍と日本の関係を読み解くこともできるだろうが、今回はあえて避けたい。

しかしウルトラマンシリーズ当初では、敵自体は人間が生み出したものであった。内部性を保った存在だったのである。この不一致こそが、むしろ外部性への純化をもたらし、外部からやってきたウルトラマンが、外部からやってきた怪物を倒す、という構造が出来たのではあるまいか。無論、それだけでは、地球人とは全く関係ない外部の出来事になってしまう。これを地球につなぎ止める役割を果たしているのが、ウルトラマン科学特捜隊に始まる地球人の助力者の系譜であったと思う。

仮面ライダーではどうだろうか。いずれのシリーズも、基本的には内部の人間が仮面ライダーになる。しかし、初代仮面ライダーがそうであったように、仮面ライダーは内部の人間にはなりきれない。常に半身外部に接しており、内部と外部の境界、人間とも怪物ともつかないところに位置する。

であるからこそ、仮面ライダーシリーズではまま、作中において人間から仮面ライダーが疎まれるような部分が描かれる。仮面ライダードライブであれば指名手配を受けるシーンであり、仮面ライダーゴーストであれば「一度死ぬ」という設定自体がまさしくそれであり、仮面ライダーエグゼイドでは仮面ライダークロニクルがそれに当たる。

ここにおいて、一応、私個人の特撮における外部性と内部性の論考は完成した。それ以後、それを更に進める形で、いわば「仮説」と言うべきものが成立した。それを脳内に留めておくにしては、私の海馬はいかにも頼りないので、今回は備忘録的にそれを更に深めたい。

「外部」とは

特撮における外部とは何か。それは怪獣・怪物である。あくまでこうした作品群が子供向けである以上、それは物理的に分かりやすくなっている。例えばウルトラマンシリーズがそうだ。まだこれについて全ての作品を視聴できているわけではないのだが、少なくとも初代ウルトラマンでは地上のどこかに眠っている怪獣が目覚めるというパターンが多かった。ゴジラの系統と言うことができるだろう。しかしそれが、少なくとも平成の作品では、宇宙から怪獣がやって来るというパターンが多くなった。これが外部性が強化され、視覚化されているということが出来るだろう。

この外部と内部、つまり普通の人々を接続する存在として、ウルトラマンシリーズでは基本的に理解者が欠かせない。例えばそれが科学特捜隊に連なる助力者組織である。この人々がウルトラマンと普通の人々の中間に存在することで、ウルトラマンが、全く正体の掴めない不思議な存在ではなくなり、救世主的な立場が確固としたものになる。

さて、仮面ライダーではどうだろうか。そもそも仮面ライダーは正義の味方ではない。ライダー自身が正義の味方でありたいと努力する場合はあっても、それを妨げるようなメカニズムが働くのだ。

仮面ライダーは上の引用の通り、外部の存在ではない。しかし単純な内部の普通の人々とは違う。外部に肉薄する、異質な内部の存在であり、そんな彼ら、つまり内部の周縁にいて、そこを外部に落ちてしまわないように、正義的な行為を続けなくてはならない。

恐怖と外部

そんな外部と内部である。それは特撮におけるメカニズムの中でどのような役割を果たすのか。

そこで出て来るのが「恐怖」ではあるまいか。

つまり内部の人々は、外部のものと接するときに恐怖を感じる。なぜか、それは外部の存在は、行動原理が分からないからだ。そのため、ウルトラマン仮面ライダー・戦隊ヒーローにしたところで、その作品群には「実はいい奴」みたいな怪獣や怪物がよく登場する。つまり、外部と内部の境界は自明のものではなく、容易に融解し得ることを指し示しているのではないかと思う。

さて、そうなると本来はウルトラマンにも人々は恐怖を感じなくてはならないのではないか。それを解消するのが上述の通り、助力者組織である。

こうした具合に、特撮における悪とは、人々に害を及ぼすということよりも、行動原理の掴めない外部の存在であるという事項が優先されるのだろう。

内部と外部の接続性

さて、軽く触れた通り、特撮における特徴は「外部と内部の境界は自明のものではない」という所だと思う。

アメコミのヒーロー作品にはそれほど明るくないが、あの作品とは、外部の存在だと思われたヒーローが内部に地位を獲得するまでを描いているのではないか。

日本の特撮では、その外部と内部という境界自体を揺らがせる。敵は敵に見えるが、なぜこの敵は敵なのか。ヒーローはヒーローに見えるが、なぜヒーローだと感じるのか。それを揺らがせるのが日本の特撮の特徴である。

以上が現状での、特撮における外部と内部についての「仮説」である。思いついたままに書いたので、重複も多いだろうと思うが、あくまでこれは備忘録であるから、この散乱っぷりと乱文っぷりは気にしないことにしたい。