仮面ライダーの命題

基本的に私が取り扱うのは、仮面ライダーであり、その中でも特に平成2期である。ウルトラマンシリーズの変遷や存在論についても興味はあるものの、まだシリーズを見始めたばかりであって、何かを論じるに値するほどではない。

仮面ライダーが正義の味方でない、と言うことは、昭和ライダー企画当初から明らかである。むしろ彼らは、人類から怪物に接近し、人類からつま弾きにされた存在でありながら、あえて人類を守らなくてはならないという宿命を背負った危うい存在である。

仮面ライダーがその後どういった変遷を辿ったか、ということであるが、昭和ライダーが放送を終了してから、一度仮面ライダーは断絶を経験している。

その後、その断絶を乗り越え始まった平成ライダーについての分析や理解には様々な考えの差異があろうが、概ね、仮面ライダービルドの脚本家を担当なさっている武藤将吾さんのコメントが適当だろうと思う。

【脚本家・武藤将吾コメント】

 きっかけは、息子でした。偶然一緒に観たニチアサに衝撃を受けると同時に、これまで平成ライダーに触れてこなかった己を猛烈に悔やみました。

 それからというもの、クールかつハードな第一期に酔いしれ、娯楽性を追求した第二期に興奮し、気づけば平成ライダーを熱く語るオッサンになっていました。

 第19作。仮面ライダーの歴史の重みを真摯に受け止め、最大級の敬意を表すとともに、これまで培ってきたノウハウを活かして、子供も大人も燃える作品を志していきます。一年間、どうぞ宜しくお願いします。*1

第1期は、およそ子供向けとは思えないほどハードな内容であった。CG技術の導入も相まって、更に高度なSFの構築に挑戦し、おそらくは子供の想像力によってそれらが補完される形で、それを成し遂げた。

第2期は、「娯楽性を追求した」という形で温和に表現されているが、それはほとんど商業主義に傾倒したと言って差し支えない。

私が第2期、そして来るべきこれ以後の仮面ライダーを考察の題材として選ぶのは、何より、そうした商業主義の中で足掻く仮面ライダーアイデンティティを具に見届けたいという思いに他ならない。

専ら現状は、仮面ライダードライブの考察に時間を割いている。そもそも仮面ライダーの世界に自分が入り込んだきっかけであった。脚本家は三条陸仮面ライダーWの脚本も担当した。平成2期を取り巻く、三条陸の亡霊。もちろん三条陸さんは存命でいらっしゃるが、彼の残した作品、殊に仮面ライダーWの亡霊というのは、その後の仮面ライダーの形を大きく規定することとなった。

そうした、仮面ライダーはかくあるべしと定める目に見えない力、そしてそれを打ち破る。それを繰り返してきた仮面ライダーの経緯は、全ての文化的作品がそうであるように、独自であり、特別である。

その存在論は、前述の中で少し触れた通りである。例えばウルトラマンという存在は、M78星雲という遠く離れた場所からやってきた巨人の不安定な善なる心に頼るより他ないという側面がある。それを補完するのは、所謂科学特捜隊のような人間側の助力者であった。人間側も奮闘することで、ウルトラマンに守られるに足る存在であることを証している、複雑な構造である(やはりこれ以上は論じることができない)。

一方仮面ライダーは、そもそもがショッカーの改造人間として始まり、それでありながらショッカーに反旗を翻す。人間であるとは言えず、むしろショッカーに近いとしても、ショッカーを敵とすることで、やはり人間であろうとするのである。

それは平成2期のライダーの中にも、形を変えて受け継がれている。例えば、ライダーと敵の使う力の根源は同一である、というのが基本的なパターンである。それが全く同じ形態であるか、少し形態を異にするかは場合によるが、間違いない。

それに加えて、ではその力の根源とは何なのか、にまつわるストーリーも、平成2期を一層賑やかにさせる。そこから「欲望」という肯定も否定もし難い命題に向き合った仮面ライダーオーズ。「卓越した科学技術」と「人間性」という命題をとりこんだ仮面ライダードライブ。そうした具合に、仮面ライダーは進化と進歩を重ねてきた。

そして今、平成2期は、ついに終わりを迎えようとしている。その終幕を担うことになったのは、おそらく仮面ライダービルドで間違いあるまい。その物語の担う役割とは、昭和・平成1期・平成2期の総括と接続ではないかと思う。その意味でも、今再び、平成2期とは何なのかを総括する必要を感じている。