「父」と仮面ライダービルド

 はじめに

おそらく映画の撮影を残すものの、ドラマとしての『仮面ライダービルド』がクランクアップし、放送終了もおそらく目前に迫る中、あえてその放送終了を見届けずに、個人的な『仮面ライダービルド』観を、「父」「国家」「ヒロイン」という観点から見たい。

もちろんこの3つの観点は、いわゆる家父長制と、それを国家に仮託するようなロジックの上では密接不可分であるが、ここではあえてそれを分割し、本作が「仮面ライダー」シリーズの、殊に平成2期においてどのように位置づけられるか、或いは、「仮面ライダー」シリーズにおいて「父」「国家」「ヒロイン」はどのように描かれてきたのを振り返ることを目的としたい。

「父殺し」という構造

仮面ライダー」について知った顔して語る上では避けられないのが、『ユリイカ』中における白倉伸一郎氏の発言。即ち、仮面ライダーには「同族同士の争い」「親殺し」「自己否定」という要素が含まれるという考え方である。

これは初代仮面ライダーが敵組織ショッカーの、いわば出来損ないであるところから発生した考え方であるが、自らもショッカーの一員となるべくして作られたもののショッカーと戦わなくてはならないという「同族同士の争い」、自らを生み出したのがショッカーであることから「親殺し」、さらにショッカーを滅ぼすことを至上命題とすると、最後には自分さえも滅ぼさなくてはならないという点で「自己否定」という要素があるとされる。

平成2期になり、商業主義的側面が強化されていく中で、「同族同士の争い」は作品によってはかなり希薄化していった。さらに「自己否定」については、ほとんどの作品を除いて、特にここ数年来では描かれていないと言って構わないだろう。

残された「親殺し」は、本来の意味合い──即ち、仮面ライダーを生み出した存在=〈親〉を殺すという意味合いを離れて、実の父、或いは父的なメンターを殺す、ないし克服するという形に変化してきた。

端的な例を言えば、『仮面ライダードライブ』における詩島剛に与えられた役割である。『ドライブ』において敵となるロイミュードを生み出した蛮野なる人間は詩島剛の父であり、ラスボスと化す蛮野を倒す(もちろんそれは「殺す」を意味する)役割を与えられたのは、まさしくその子たる詩島剛であった。

『ドライブ』における問題意識は『仮面ライダーW』から継承されたものである、というのが私見なのだが、その点で考えると、もう少しわかりやすい。

仮面ライダーWの変身者は2人いるが、その一方であるフィリップの父親は、実は敵のボス・園咲琉兵衛なのであって、敵を倒すことはたちまち父を殺すことと繋がる。もちろんこの観点から『W』を見る際には、この物語自体が、鳴海探偵事務所という意図的に構成され拡張された「家族」と、ミュージアム=園咲家といういわば伝統的=家父長制的な「家族」が対立し、最終的には前者の「家族」が勝利する、言い換えれば、家父長制が敗退するという観点を忘れてはいけない。

三条陸氏の脚本以外でも、こうした「父」を倒す、或いは克服するといった内容は見られる。

例えば『仮面ライダーゴースト』で、天空寺タケルは第一話で死んでしまうが、その彼がなんとか成仏せず現世の居残るのは、あくまで父の恩恵であって、即ち最終目標である「生き返る」ことを達成するのは、父を克服するのである。

この『ゴースト』が典型的であったように、かつては超人的なヒーローとして描かれてきた仮面ライダーが、一種作品とともに「成長する」様にフォーカスして描かれるようになったのは、平成1期の中頃からではないかと思う。「成長」と仮面ライダーという観点で言えば思い出されるのは『仮面ライダーフォーゼ』である。

『フォーゼ』における如月弦太朗は父を失っている存在だが、彼にもメンターと見なせる存在がいる。まさに『フォーゼ』のラスボスである理事長・我望である。

学園を家族と見た際、自然「父」と見なされる我望であるが、『フォーゼ』が最終的に「我望理事長からの卒業」という形で幕を閉じるのは「父の克服」という観点からも興味深い。

さて、「父」と仮面ライダーはこのようにして切っても切り離せない。もちろんその根源には白倉氏の言うように「親殺し」というロジックが、仮面ライダーにおいて重要だ、という観点もあるものの、ここ数年来は、主人公の成長という観点から、むしろフロイト的観点──即ち、男児は父親を「殺す」ことによって大人になるというエディプスコンプレックス的側面が強化されてきたのはないかと思われる。

仮面ライダー」シリーズ全体が幼児、専ら男児に向ける眼差しについては、「ヒロイン」と仮面ライダーの関係を考える上でも重要になってくる。

仮面ライダービルド』における「父」

『ビルド』では、この「親殺し」が執拗なまでに反復される。順に見ていこう。

桐生戦兎は、かつての記憶がない天才物理学者である。正体が、まさにライダーシステムを考案し、悪の科学者とされてきた葛城巧である、ということが明らかになる。実はこの葛城巧の父・葛城忍こそが、エボルトの協力者であり、畢竟、敵を倒すためには、父を倒すことを余儀なくされる。

万丈龍我は、当初は自らの冤罪を晴らすために行動していたが、専ら後半では「ラブアンドピース」のために戦うようになる。しかし実は彼がエボルトの遺伝子を受け継いでいるために特殊な能力を持つのだということが明らかにされる。もちろんエボルトが万丈を産んだわけではないのだが、エボルトの遺伝子の一部を受け継いでいる、というのは当然「息子」であると言って差し支えないだろうと思う。つまり万丈にとってエボルトを倒す、ということは「父」を倒す、ということを意味する。(もちろん、「父」の遺伝子が自分自身の一部である以上、「自己否定」の要件も部分的に満たすことになる。)

氷室玄徳は、東都政府のかつての首相・氷室泰山の息子であり、敵のように振舞っていた彼も、現在は亡き父の遺志を受け継ぐ形で「ラブアンドピース」のために戦うこととなる。つまり、その遺志を達成することこそが「父の克服」である。

「成長」「父」「正義」

父の打倒がいかにして「正義」と結びつくか、というロジックは簡単ではない。ただし、父の打倒が主人公の「成長」を描いているという点は上記の通りである。

さて、「正義」とは何か、と考えたとき、「仮面ライダー」シリーズでは案外簡単にそれが規定されていることが多い。

例えば「人に危険を及ぼす者を排除すること」であり、「友達になること」であり、「法を執行すること」であり、「患者の命を救うこと」なのである。

仮面ライダーに課せられた命題が「正義とは何か」という解釈は、不可能ではないが、実際にはそこには深みがない。むしろ正義のために仮面ライダーは戦うのだという思い込みから脱して、「仮面ライダーはなぜ戦うのか」という命題を抱く方が適切であるように思われる。

そう考えたときに、「仮面ライダーは父を倒すために戦うのだ」という命題は、それほど普遍的にはなりえないにせよ、大なり小なり多くのライダーに当てはまりそうである。

その観点から考えて、『ビルド』を見ると、本作では間違いなくライダーたちは「ラブアンドピース」のために戦っているように見せかけて、「父を倒すために戦っている」。この観点は、この作品が評価される上で忘れられるべきではないと思う。

「仮面ライダービルド」における構造分析の備忘録

仮面ライダービルド」は放送中である。なかなか評判は振るわないらしいが、確かに大人が見ればワクワクするストーリー展開であるし、少しライダーを齧っただけの私でも〝仮面ライダーらしさ〟を感じる。

おそらく放送終了後には一応作品全体を総括して何かしら書くことにするのだろうが、そのための小括としてここにいくつかの点をメモしておきたい。

自分を殺さなければならない仮面ライダービルドの悲哀

仮面ライダービルドの変身者は桐生戦兎である。しかしこの戦兎の正体はどうやら葛城巧であるらしく、この葛城巧はライダーシステム云々、即ちこの〝悪行〟のきっかけでもある。

つまり戦兎は、断絶され顔も違い記憶さえ持ちえない過去の自分を敵として、その過去の自分を打ち倒すことで自分自身を手にしなければならないという存在である。

しかしそれだけでなく戦兎は、到底自分自身とは思えない自分を背負いながら、その過去の自分の贖罪を求められる。

この贖罪は〝科学の平和利用〟という甘美な響きに取って代わられて、〝科学〟が〝平和〟のために存在することを証明する〝科学者〟としての立場とリンクすることになる。ここ数話は科学者らしい描写が見られないのが残念なところであるが。

父親殺しを命題とする仮面ライダークローズ

仮面ライダークローズは当然2号ライダーになるわけだが、ここ数年、2号ライダーが闇落ちするというのが典型パターンになっている。

仮面ライダードライブ」における仮面ライダーマッハ、「仮面ライダーゴースト」における仮面ライダースペクター、「仮面ライダーエグゼイド」における仮面ライダーブレイブ。

事情は違えど、一時的に敵の力に見せられ、或いは敵に与する2号ライダーは、1号ライダーの敵として存立することで、その悲哀を増す。

仮面ライダークローズに変身する万丈龍我が人間ではないことは先日明らかにされたところであるが、これは種々の意味を持つ。

まず、万丈龍我がエボルトの遺伝子の一部の影響を受け継いでいるというのがポイントになる。いわば父すら意識しなかった私生児、ではなく、息子すら意識しなかった第二の父親、ないし第三の(遺伝的)親としてエボルトが存在することで、龍我とエボルトは疑似的な親子関係を結ぶことになる。

仮面ライダーにおいて登場人物が父親を殺す必要がある、或いは父親を克服する必要がある、という例はかなり多く、今回もそのうちの一つであって、龍我は今後疑似的な父・エボルトを克服することが出来るかというのが命題となる。

父の克服という点で言えば氷室幻徳もまさにそうなるわけだが、父を失った彼には人間的に成長することが求められる。

国家と仮面ライダー

特撮におけるヒーローは、それが人智を超えて強力であるからこそ、ある国家権力に与することがないよう最大限の配慮をしてきた。

例えば「ウルトラマン」シリーズでは、ウルトラマンたちはあくまで変身者の意思によって変身する上に、その変身者が何らかの組織に属していたとしても、その組織は国際機関として定義されることで、国家権力に与することを避けている。

ウルトラマンコスモス」におけるチームアイズを含めた民間機関SRCは度々政府直属の防衛軍と対立しており、ここでもあくまで国家権力に従わない様が描かれる。

もちろん、国家権力の側にありながら国家権力を批判するということも可能ではあるし、例えばアニメ「PSYCHO-PASS サイコパス」なんかは、主人公・常守朱がシビュラシステムに従って(機械仕掛けの)正義を執行しつつも、シビュラシステムそれ自身に批判を向けるということをやってのけている。

しかしこれをやるには相当な体力が必要で、日曜日の朝、子供向けにやるには重すぎる。

その結果、仮面ライダービルドとクローズが東都政府に与し、その〝兵器〟と化したとしても、国家権力に与したことそれ自体は正当化できていない。

その後、グリスが北都政府代表として現れること、西都政府がそのまま難波重工とニアリーイコールであることによって、陣取り合戦的な構図の中でそれが正当化されている節はあるものの、〝国家権力と組んで仮面ライダーが戦った〟という違和感はある。

仮面ライダードライブ」の主人公・泊進ノ介も確かに警察官であり〝国家権力〟側の人間ではあるのだが、彼が警察からむしろ指名手配されることによって一定の距離感を明かしている。その一定の距離感は物理的にもあって、あくまで特状課が警視庁の庁舎内に行かないことでも、国家権力との距離を計っている。

こうした事情から、今後着目したいのは以下の点である。

  1. 東都・北都・西都といった国家権力と仮面ライダーとの距離感
  2. 仮面ライダービルド(桐生戦兎)はどのように自己(葛城巧)を克服するか
  3. 仮面ライダークローズ(万丈龍我)はどのように父(エボルト)を克服するか
  4. 〝科学〟と〝戦争〟と言ったテーマについて、どのような答えを導き出すか

入門「仮面ライダードライブ」論

はじめに

仮面ライダードライブ」は2014年10月から、翌年9月に渡って、計48話が放送された特撮番組である。放送終了から3年が経過しようとしている。毎年新たな作品が放送される「仮面ライダー」の歴史にあって〝3年〟というのはあまりに長い。

日本のドラマは商業主義的である所以もあって、時間が経過すると、その記憶は失われていく。多くの名作とされるドラマが長い間語り継がれるアメリカやイギリスとは違う。特撮では殊にそうである。その中であえて、「仮面ライダードライブ」という作品について、その構造を分析し、価値を付与することには意味があると思う。

そのために概説的に本作品を語りたいと考えているが、さしあたりはそのドラフトとして本稿を記す。

1.仮面ライダードライブとは何か

仮面ライダー」シリーズは、1971年4月に放送を開始した「仮面ライダー」から連なるシリーズである。そのシリーズは、普通「昭和」「平成1期」「平成2期」に分けて説明されることが多い。

「昭和」ライダーとは、「仮面ライダー」(1971年4月~1973年2月)、「仮面ライダーV3」(1973年2月~翌年2月)、「仮面ライダーX」(1974年2月~同年10月)、「仮面ライダーアマゾン」(1974年10月~翌年3月)、「仮面ライダーストロンガー」(1975年4月~同年12月)、「仮面ライダー(スカイライダー)」(1979年10月~翌年10月)、「仮面ライダースーパー1」(1980年10月~翌年9月)、「仮面ライダーBLACK」(1987年10月~翌年10月)、「仮面ライダーBLACK RX」(1988年10月~翌年9月)を言う。

全部で10作品であり、最後の「仮面ライダーBLACK RX」の放送終了は1989年ということになるが、この年は平成元年。平成元年ということは昭和64年と重複するという言い方もできるのだが、それでもなおこの作品が「昭和」ライダーに算入されるというのには深い事情がある。「仮面ライダー」シリーズの〝断絶〟である。

仮面ライダーBLACK」以後、次の「仮面ライダー」は、2000年の「仮面ライダークウガ」を待たなくてはならない。この10年に及ぶ断絶は、仮面ライダーに大きな影響を及ぼした。

その断絶の後、「仮面ライダークウガ」(2000年1月~翌年1月)以後、「仮面ライダーアギト」(2001年1月~翌年1月)、「仮面ライダー龍騎」(2002年2月~翌年1月)、「仮面ライダー555」(2003年1月~翌年1月)、「仮面ライダー剣」(2004年1月~翌年1月)、「仮面ライダー響鬼」(2005年1月~翌年1月)、「仮面ライダーカブト」(2006年1月~翌年1月)、「仮面ライダー電王」(2007年1月~翌年1月)、「仮面ライダーキバ」(2008年1月~翌年1月)、「仮面ライダーディケイド」(2009年1月~8月)と作品が続く。

この10作品が「平成1期」としてグルーピングして語られるのは、最後の「仮面ライダーディケイド」が前の10年を振り返る形で制作されたいわば〝総括〟的性格を持ち合わせているからだ。

この「平成1期」は、前10年の断絶を経験しているからこそある命題と向き合わざるを得なかった。それは、「いかにしてこの作品を「仮面ライダー」たらしめるか」ということである。

これは、漫画で言えば『亜人』『いぬやしき』に見られる問題意識である。物理的存在が消滅ないし丸きり入れ替わってしまっても尚、その存在はアイデンティティを保っていると言えるか。より具体的に言えば『亜人』は殺されても死ぬことは無い。それでも殺された後のその人物は同一人物と言えるのか。『いぬやしき』はある日機械の体を手にし、物理的継続性が失われた状態でも「私は私」であると言えるのか。

高校倫理でも、アイデンティティという語を説明する時に、「細胞分裂が行われ数年前の自分と今の自分が物理的には一致しなくても自分を自分たらしめるもの」という解説を行うことがある。しかしこれには決定的な無理がある。なぜならこの場合、あくまで「私」は継続して意識を保ち続けているのである。

本当にアイデンティティが試されるのは、むしろそれが〝断絶〟した『亜人』や『いぬやしき』的な状況であり、それと同じことが「仮面ライダー」でも起きた。

強い「仮面ライダーを作ろう」という意識と共に、それが10年前の作品と全く同じであってはいけない、という難しさの中に平成1期はあった。

その後、「仮面ライダーW」(2009年9月~翌年8月)、「仮面ライダーオーズ/OOO」(2010年9月~翌年8月)、「仮面ライダーフォーゼ」(2011年9月~翌年8月)、「仮面ライダーウィザード」(2012年9月~翌年9月)、「仮面ライダー鎧武/ガイム」(2013年10月~翌年9月)、「仮面ライダードライブ」(2014年10月~翌年9月)、「仮面ライダーゴースト」(2015年10月~翌年9月)、「仮面ライダーエグゼイド」(2016年10月~翌年8月)、「仮面ライダービルド」(2017年9月~)と続く。これが「平成2期」である。

「平成2期」は、一度〝総括〟が行われた「平成1期」からの連続性は担保されつつ、そこにオリジナリティを加えなければならないという問題意識の中で、かつ〝商業主義〟という側面も強調されてくる。この〝オリジナリティ〟は、例えば特撮経験のない脚本家に脚本を担当させたり、あるいはそのフォルムにユニークなものを採用することで発現される。

こうした「昭和」「平成1期」「平成2期」について、この3つを総括的に語ったものとして「仮面ライダービルド」の脚本家を担った武藤将吾氏のコメントがある。

【脚本家・武藤将吾コメント】
 きっかけは、息子でした。偶然一緒に観たニチアサに衝撃を受けると同時に、これまで平成ライダーに触れてこなかった己を猛烈に悔やみました。
 それからというもの、クールかつハードな第一期に酔いしれ、娯楽性を追求した第二期に興奮し、気づけば平成ライダーを熱く語るオッサンになっていました。
 第19作。仮面ライダーの歴史の重みを真摯に受け止め、最大級の敬意を表すとともに、これまで培ってきたノウハウを活かして、子供も大人も燃える作品を志していきます。
 一年間、どうぞ宜しくお願いします。*1

 「平成1期」はかなりハードな作品となったが、これは「昭和」の中から「仮面ライダーは正義のヒーローではない」的な側面を強調して制作されたからで、「平成2期」はその商業的可能性がパターン化されることで娯楽的になった。「平成2期」では「いかにして仮面ライダーを正義のヒーローたらしめるか」という側面があるが、これには当然「仮面ライダーは正義のヒーローではない」という前提があるのである。

「平成2期」の始まりを飾った「仮面ライダーW」は、現在でも名作と名高いが、その脚本を担当した三条陸氏が再び脚本を担当したのが「仮面ライダードライブ」である。だからこそこの作品は「平成2期」的側面が強い。

「平成2期」は、後期になるほど「仮面ライダーを正義たらしめる」ためのメカニズムが定型化されていく。実際、「仮面ライダードライブ」に続く「ゴースト」は、ストーリーの大枠やライダーの数まで、きわめて「仮面ライダードライブ」的と言える。

仮面ライダー」シリーズとは、その始まりからして特異であった。主人公・本郷猛は、敵のショッカーに拉致され改造人間にされかけた。しかしその途中で抜け出すことに成功した彼は「完全な市民(内部者)」とも「完全な敵(外部者)」ともつかないマージナルな存在である。この不安定な性質こそ、「仮面ライダー」を構成する重要な要素の一つである。

仮面ライダーとは、内部とも外部ともつかない境界にある。しかし仮面ライダーには遠心力が働く。そのままでは仮面ライダーは敵と変わらなくなってしまう。その仮面ライダーを、あくまで内部に──それが境界であっても──内部に引き留めようとするための構造が2つある。

第一に、仮面ライダーはいつも〝正義的〟に振舞う。それが本当に〝正義〟であるかとは別にして、〝いわゆる〟という枕詞付きの〝正義〟であろうとする。つまりそれはかなり利己的な性質を兼ね備えているのであり、自らの存在のために戦うという点では、仮面ライダーの戦いとは〝私闘〟的であると言うこともできる。

第二に、仮面ライダーには助力者がいる。仮面ライダーを助けるものたちは大概〝市民〟的である。殊に「平成2期」では、その助力者が、例えば本作における「特状課」であるとか、「大天空寺」という形で組織化されている。これも特徴のひとつである。

さて、本作──つまり「仮面ライダードライブ」においてはこの「内部」「外部」というロジックはどう表出しているのか。

「内部」が市民、「外部」が敵という構造を取り出せば、本作では「内部」が人間性、「外部」が非人間性に象徴されることが分かる。敵であるロイミュードは「人間になろう」とした機械生命体だったからだ。

しかしそうするともう一つ気が付くことがある。それは、仮面ライダードライブの変身のために必要な「ベルトさん」、つまりクリム・スタインベルトは人間であったはずだが、ベルトの中に取り込まれることで機械化されており、敵の蛮野も元は人間だったはずが、最後はかなり機械的になってしまっているということである。

つまり「仮面ライダードライブ」の特異性とは、内部と外部とマージナルな仮面ライダーというだけではなく、その内部と外部が極めて流動的であること、あるいはその融解が見られることにあると言うことができるのである。

2.グローバルフリーズ論

本作は、かつてロイミュードによって世界が恐怖に陥れられたグローバルフリーズから語りはじめられる。

人間が、利用しようと開発した非人間によって蹂躙される、という地位の逆転が、ある一晩起こる。これこそがミハイル・バフチンが指摘した「カーニバル」であると言える。

しかし、このカーニバルが、基本的には下位者が上位者に勝利し堕落した上位者を嘲笑するという形で起こるのと比べれば、この作品は、上位者のはずの人間が下位者のはずのロイミュードに敗北し嘲笑される、という受動的な形で始まることになる。結果としてそこにあるのは〝嘲笑〟ではなく、むしろそれを向けられる〝恐怖〟であり、その〝恐怖〟を克服するためにこの物語は起動する。

3.仮面ライダー存在論

さて、そのグローバルフリーズの際に人間を守るために戦ったのが仮面ライダープロトドライブだった。その変身者はチェイスであり、彼はロイミュードである。つまり、非人間である彼だけは、非人間のロイミュードが逆転するグローバルフリーズにあってなお、戦うことが出来た。

しかし、そんな仮面ライダープロトドライブにも弱点がある。彼はロイミュードを消滅させることができないのだ。それはなぜか? もちろんそのような機能が無かったから、という設定であるが、そもそも彼にロイミュードを消滅させることはできない。彼はあくまで非人間たるロイミュードの〝同位者〟であって、それに優越する〝上位者〟ではないからである。

だからこそ仮面ライダードライブは、その後ロイミュードを消滅させることが出来る。彼は上位者たる市民と完全な〝同位者〟ではあり得なくても、ロイミュードの〝上位者〟である。

そして、その仮面ライダードライブのマージナルな側面が強調されるのが、タイプトライドロンである。そもそもバイクに乗らず、車に乗る仮面ライダードライブは、バイクで無かったとしてもその「乗り物」と強い関係を持つことに特異性がある。そしてタイプトライドロン──つまり、トライドロンという〝車〟と共に戦うというのも、その象徴である。*2

しかし、そのタイプトライドロンを身にまとうということは、ベルトさんと共に戦うことを意味する。そしてかつては生きた人間であったクリム・スタインベルトも、機械化され保存された現状では、あくまで非人間に近いと言える。

人間である泊進ノ介と非人間になってしまったクリム・スタインベルトが共闘するタイプトライドロンこそ、そのマージナルな仮面ライダードライブを象徴しているということが出来る。

 4.特状課の存在論

 仮面ライダー平成2期における大きな特徴の一つとは、仮面ライダーを補佐する役割を担う人々が増え、更に組織化される傾向である。

仮面ライダーW」は、その所属組織さえ小さな探偵事務所であるものの、地元の警察もそれに協力する形をとるし、「仮面ライダーフォーゼ」は仮面ライダー部が学園内において重要な役割を担うのみならず、その部室が月面に設置されることで、作品の縮小した世界観を拡大する役割を引き受けている。

仮面ライダードライブ」においても、主人公・泊進ノ介が属する特殊状況下事件捜査課は、警視庁刑事部の下に置かれた組織であり、ロイミュードの犯罪(機械生命体による犯罪)への対処に重要な役割を担う。

もちろんこれ自体が仮面ライダーの地位を確固たるものにし、公権力の犬になったわけでないことは、その後、変身を禁じられ、或いは指名手配さえされることに象徴される上、この特状課が桜田門の警視庁舎ではなく、おそらく特別区外にあるであろうことからも分かる。

特状課の面々に関して忘れてはならないのは、詩島霧子である。もちろん彼女は二号ライダーの仮面ライダーマッハに変身する剛の唯一の肉親であるという点でも大切だが、仮面ライダーにしては珍しく、泊進ノ介とのコミカルな恋模様を演じる点でも特別な地位を占める。

5.ロイミュード存在論

ロイミュードは、前述の通り、機械生命体であり、作中における非人間性の象徴的存在である。仮面ライダーにおいて、ライダー(ないし市民)と敵の距離の近さはまま問題になる。

象徴的には、仮面ライダーオーズにおいて変身に用いられるコアメダルとはそのまま敵幹部グリードの本体を意味するし、仮面ライダーオーズは、グリードやヤミーが人間の欲望からセルメダルを抽出するのを阻止するために戦う。つまりこの作品における〝悪〟の根源とは欲望、ひいては人間そのものであって、軽はずみにこの〝悪〟を否定することは、そのまま〝人間〟を否定することに繋がりかねない。

ロイミュードも機械生命体であるが、一方、仮面ライダードライブに変身の能力を与えるベルトさんも同様、機械でしかない。その中で一足飛びにロイミュードを悪と断じ、或いは仮面ライダーを正義と見なすことを妨げている。

ロイミュードのその目的は、最終回直前に近づいてくるにつれて「人間に近づこうとした」ということなのだろうと明らかになるが、それとは対照的に蛮野は「人間から離れていく」。

最後には〝親友〟の魂を追い求めて旅に出ることになる詩島剛に関して言っても、そもそもチェイスロイミュードなのであって、ロイミュードを悪と断じられない構造が明らかになる。

6.父親の存在論

仮面ライダーにおける父親、ないしメンターの存在は非常に重要である。多くの作品で〝父〟をどう扱うか、どう乗り越えるかというのは大きな問題だ。

仮面ライダーゴースト」の第一話は、主人公・天空寺タケルが敵に殺されるも、父の能力で限定的に生き返ることに成功するところから始まり、最後には父の能力を離れて自力で生きることを目指す。

この手の、父の手、或いは〝呪縛〟から離れるようなストーリーが、「仮面ライダードライブ」にも見られる。

泊進ノ介の父親がロイミュードに殺されたらしいと分かった後、冷静さを失った泊進ノ介であったが、それを乗り越える形で手にしたのがタイプトライドロンというフォームである。

それだけでなく、詩島剛の父親は蛮野であるが、親友を失い、蛮野を殺すことができたのは、やはり息子・詩島剛本人より他にいなかったというのが、象徴的にこの〝父親〟の役割を示しているのではないかと思う。

7.仮面ライダードライブは誰のために

仮面ライダードライブ」は、「バイクに乗らない」ことで話題を得た作品であった。

しかし思い返せばその前数年の仮面ライダーは、もうほとんどバイクには乗らなくなっていたのだし、〝愛車〟に乗るというだけでもまだ〝ライダー〟たりうるのではないかと思われる。

そしてその構造は、典型的な仮面ライダーの構造を保ちつつも、その内部と外部が融解するという特殊性を持って、「仮面ライダー」シリーズ中でも特に輝きを放っているのである。

*1:ニュース|仮面ライダービルド|テレビ朝日

*2:過去数年の作品では、「仮面ライダー」を冠しながらもバイクに乗ることが軽んじられ、「仮面ライダーフォーゼ」ではバイクで宇宙にまで飛び立つ有り様である。他作品でも、単なる移動手段として以上の意味を持たなくなってしまっていた。

特撮についてこれまで考えたこと

仮面ライダービルドが放送中であるためか、2月に書いた記事の閲覧数が毎週日曜日にだけ増える。ありがいことなのだが、かなりやっつけに書いた節もあるし、その後少し考えたこともあるので、このあたりできちんと整理しておきたい。

kamen-rider.hatenablog.com

もう一つのブログの方は頻繁に更新しているんだけれど、もう一か月経ってしまっているなあ。

外部と内部

まず、特撮を考えるときに導入したいのは外部内部という概念だ。特撮の必要不可欠な要素は「ヒーローが敵を倒す」ことだが、この「ヒーロー」というのは私たちとは違う。

私たちの形成する人間による社会を内部とするならば、襲ってくる敵は外部に属するということになる。ではヒーローは?

日本を代表する3種類の特撮ヒーローを挙げて考えると、三種三様だ。

まず、ウルトラマンについては、彼らは基本的には宇宙からやって来たヒーローであるか、太古から眠って来たヒーローである。よくよく見ると顔は人間的ではないわけだし、彼らははっきりと外部に属すると言っていい。では、なぜ外部の彼らが内部の我々を守ってくれるのか、これが難しい。基本的には「ウルトラマンは優しいから」ということになる。かなり不安定なその構造を支える仕組みが2つある。第一は、ウルトラマンに変身するのが内部に属する人間であるという点。第二は、ウルトラマンと共闘する組織が存在するという点。

次に、仮面ライダーについては、そもそもの仮面ライダー1号は、敵組織によって改造人間にされる途中で逃げ出した存在であり、内部とも外部ともつかない境界に存在することにその特質がある。平成Ⅱ期に限っても基本的に全ての仮面ライダーは、敵とその力の根源を共有している。現在放送中の「仮面ライダービルド」にしても、青羽を誤って殺してしまったのを泣きながら悔やんでいる様が描かれるなど、現在もその性質は忘れられていない。仮面ライダーは人間のために戦うことで、内部に存在し続けようとする(詳細は後述)。

最後に、戦隊ヒーローについては、特に意識されている視聴者が仮面ライダーより更に幼いこともあってか、内部の存在として描かれることが多い。一方で、「宇宙戦隊キュウレンジャー」でも地球人がキュウレンジャーに石を投げるシーンがあったように、時として突き放されるリスクは他の特撮と同様にあるわけだが、基本的には内部の存在としてあり続ける。

恣意的な正義

ウルトラマン然り、仮面ライダー然り、彼らは所謂「正義」を為さなくては外部に突き放されてしまうという遠心力が働いている。

例えばそのことは、「仮面ライダードライブ」第2話で主人公・泊進ノ介が仮面ライダードライブの変身者になることに逡巡するところや、「仮面ライダービルド」で執拗なまでに主人公・桐生戦兎が科学の平和利用を唱えるところなどに表出している。

仮面ライダーで描かれているのは〝正義とは何か〟だろう」と言う人もいるのだが、実際にはそんな悠長なことは言っていられない。考える前に正義らしいことをしなくては、彼らは怪物と変わらなくなってしまう。

実際には特撮におけるヒロイズムとはかなり恣意的なものなのだ。

私闘性と公益性

特撮ヒーローの正義が恣意的なものであるから、その戦いは利己性を伴っているということになる。これを私闘性と呼ぶこともできる。これは特に平成1期に典型的に現れる。反対にこれは平成2期では公益性が前面に押し出されることで隠されている。

例えば「仮面ライダードライブ」の主人公は警察官、「仮面ライダーゴースト」の主人公は寺の御曹司、「仮面ライダーエグゼイド」の主人公は医師だ。

一方「仮面ライダービルド」は復古的に私闘性を帯びているとも考えられる。主人公が東都政府に与して戦うといった公益性はあるのだが、東都と北都・西都が争いを始めた後に行われた代表戦などは公益性を保ちながらも極めて私闘的な性質が見て取れる。

むしろ逆説的には時として利己的に行った戦闘がたまたま正義と目されるという偶然の正義性とさえ呼びうるような性質さえ持っていると考えられる。

メンターとそれを克服すること

仮面ライダーを見ているとに関する話が多いことに気がつく。この父とは必ずしも遺伝子的な父を指すわけではなく、メンターと呼ぶべきような存在である。多くの場合はそれが男性である。

フロイトが言うように男児は同性の親である父親を殺すことで成長できる。殺すと言うのは「克服する」「超越する」と読み替えても良いはずだが、こうした場面はよく描かれる。

象徴的には、「仮面ライダードライブ」における仮面ライダーマッハの例がある。その変身者・詩島剛の父・蛮野はこの作品におけるラスボス的な立ち位置にいる。途中その父を信じてしまい裏切られる経験をする彼だが、最後にはその父を文字通り殺し、消滅させることになる。父を殺した剛は、その後、友人であるチェイスの消滅した魂を探して旅に出る。

成長物語としての仮面ライダーは、「父をどう克服するか」という形で表出する。

この性質は映画『アバター』にも共通してみられる*1ような普遍的な構造である。

これから

以上が、これまで特撮について考えたことである。

そしてこれから考えたいことは、以下の通り。

  1. 仮面ライダードライブ」における外部性と内部性を体系的に見つめなおし、助力者組織として特状課の役割について考えたい。
  2. ウルトラマンコスモス」における外部性と内部性から、視聴者の参加可能性をどのように担保しているか、ナレーションの役割について考えたい。

他にも色々考えたいことはあるのだが、さしあたりはこの2つ。

仮面ライダービルドと戦争について

 韓国人でありながら仮面ライダーに親しむという人のツイートをきっかけにして、というか実際にはそれ以前から仮面ライダーが戦争を描くということについてあちこちで取り上げられてきたのだろうが、その問題が明るみに出たと思う。

当初これについてはTwitterで「ビルドはなかなかうまくやっていると思う」というようなことをツイートし、それについて深く語ることは避けようと思っていた。まだ終わっていない作品に、いずれの視点にせよ、評価を下すようなことは出来るだけ避けたかったからだ。しかしながら以下のブログの記事を、たまたま目にした。

戦争をテーマにしたことが良いと思うか、悪いと思うか、踏み込んだと思うか、踏み込み方が浅はかだと思うかは、個々人の感想によります。こういった感想はどうしても肝心の子供の理解の程度を不在にして交わされてしまうのですが、それでも、同じ作品を観る人たちの意見交換そのものは、有益だと思います。

『仮面ライダービルド』が戦争をテーマにしたこと、またその描写が「浅はか」という意見への雑感 - ジゴワットレポート

 これは確かにそうだろうと思う。これを受け、曲がりなりにも仮面ライダーに触れてきた一人として、一応考えていることをメモ的に書き連ねておくことも、悪くないのではないかと考えた。もちろん終わっていないから、作品が終了した時点で意見は変わるかもしれないから、あくまで現時点の随想である。

仮面ライダーは子供向けか

仮面ライダーは近年、実際には極めて重たいテーマを連続して扱ってきた。果たして子供がそれを見て一体どれほどを理解できるのかと思うこともないではない。これについては特撮の脚本を多く手掛けてきた小林靖子さんの言葉に耳を傾けるべきだろうと思う。

──ちなみに先ほどのメインターゲットのことですが、メインから外れる大きいお友だちもたくさん見ていますよね。そういう大人に対する目配せみたいなことは意識されていますか。

小林 それは特にないです。ただ、幼稚園児を排除するということはぜったいにないとして、それにプラスして小学生も見てくれないかなと思ってちょっと大人っぽくしたりはしています。でも、なかなか見てくれないんですよね。(特撮からの)卒業が早まっているというのもあるし、ゲームとかほかにおもしろいものがいっぱいある。ライダーのほうは少し年齢が上がっても見るんですけど、戦隊は難しい。アニメは見るけど、「特撮は幼稚園児の見るもの」というイメージがあるのかもしれないです。大人は特別意識しなくても好きなひとは見てくれるので、そこは心配していないですね。*1

 つまり、脚本家としては、別に大人の視聴者を意識していない。想定しているターゲットは幼稚園児。せいぜい小学生まで。大人に関しては、好きな人は見るだろうという程度で、それ以上深いことは考えていない。

これは個人的な特撮への理解と違うものではない。特撮はあくまで子供向けとして作られているし、だからこそ良いのであって、それを大人が見るからこそ楽しめる、という側面すらあるのではあるまいか。

さて、一方で、近年の仮面ライダーが大人向けになりつつあるのではないか、という気がする。そもそも仮面ライダーとは、初代「仮面ライダー」以後はそこから派生した言ってみれば〝二次創作〟であった。しかし近年はそれが〝三次創作〟になりつつあるのではないか。現在の「仮面ライダービルド」にしたところで、その作品への「仮面ライダーW」の影響は計り知れない。仮面ライダーシリーズが、過去の作品へのリスペクトを孕んだオマージュに富んできているのではないか、それに気づくかどうかで楽しみ方が大きく変わってくるのではないか、と思われるのだ。

しかし一方でこれは、その作品のストーリー自体が大人向けになりつつあるということを意味しない。あくまで仮面ライダーは今も、子供向けだろう。

戦争をいかに描くか

仮面ライダーは戦う。それは過去何度か記事にしてきた側面もあるが、その理由とは何よりその仮面ライダー自体の位置にあるのではないかと思う。

つまり、外部に存在する敵と内部に存在する市民。仮面ライダーは市民であるはずなのに、極めて外部に接近する、いわば境界・周縁に存在する。何もしなくては、そのまま外部に突き放されてしまうという遠心力に対して、彼の信じる〝正義〟的な行為によって、内部に存在し続けようとするのだ。

簡単に言うと、仮面ライダーは悪の敵と性質が近しいから、正義のヒーローであろうと努めることで、敵との距離を保つ。

仮面ライダーが正義のヒーローであり、仮面ライダーシリーズが勧善懲悪の番組である、というのは全くの誤解である。この構造から分かるに、仮面ライダーの戦いとはいつも利己的なものであって、それが偶然に正義性を帯びることがある。

しかしここ数年の仮面ライダーでは、それが明白には描かれてこなかったように思う。

仮面ライダードライブ」では主人公の泊進ノ介は警察官で、その職業によって行いが正義に適うはずだという根拠とされる。「仮面ライダーゴースト」では主人公の天空寺タケルは寺の息子である上に、自らが生き返るため、という絶対的な動機のもとに戦う。「仮面ライダーエグゼイド」では主人公の宝生永夢は医者であり、患者を救うという名目のもとに戦う。

例えば平成1期には描かれていた仮面ライダーの私闘的側面は、2期には巧妙に隠されてきたのだ。

さて、そこで〝戦争〟である。

仮面ライダービルド」における戦争は、あまりに自分勝手な動機で始まる。突然の北都・西都からの宣戦布告。圧倒的な蹂躙。どうにも理解されない。これこそ、仮面ライダーの私闘的側面が拡大されて描かれたのであり、北都との代表戦こそ象徴的にそれが再現されているのではないか。

国家が分断される悲しみ、〝戦争〟の理不尽さ。それを、日曜朝の30分の子供向け番組で描くのは難しかろう。しかしどうだろうか、本来〝戦争〟に模範解答などないはずではないか。瓦礫の中で泣きわめく人々のシーンを繰り返せば満足なのか。或いは朝鮮戦争の再現のように描けば良いのだろうか。

この作品は、あくまで〝戦争〟のある側面を描いたに過ぎない。「この作品は」、しかしこれまで描かれてきた仮面ライダーの戦いと、この〝戦争〟は何が違うというのか。

むしろ、第21話の、桐生戦兎の嗚咽交じりの謝罪などは、その描くべき点を確かに描き、仮面ライダーに潜む独善性・利己性を明かしたのではないか。

こうした理由より、私個人は、「仮面ライダービルド」が戦争を描いた試みは仮面ライダーの性質に極めて適合しているし、その描き方も、見る人が見れば〝物足りない〟だろうが、模範解答が存在しない〝戦争〟のある一面をよく描いていると考える。そして、それがこの先も続くことを祈っている。

*1:小林靖子 聞き手・構成=上田麻由子「生き生きとした“キャラクター”─存在と時間の技法─」『ユリイカ 9月臨時増刊号』第44巻第10号 2012年8月 pp.107-108

仮面ライダーと外部性、恐怖の論理

本ブログの拙記事(仮面ライダーとウルトラマンの比較について、現時点の考察 - 特撮の論壇)中において、仮面ライダーウルトラマンをその外部性と内部性に着目して比較した。ここにその記事の一部を引用する。

こうしたところで気が付くのは、内部性と外部性である。

ウルトラマンはシリーズを重ねるごとにその外部性を増していき、反対に仮面ライダーは内部性を保っていると言うことができる。

ウルトラマンは本来は宇宙からやってきたヒーローである。当初は人間の乗る飛行機と衝突して、半殺しにしてしまったから生命エネルギーを分け合う、というような設定であったはずだが、つまり外部からやってきた強力な存在が、その力を地球人に分け与える、という構造を読み解くことができる。あるいはそこに在日米軍と日本の関係を読み解くこともできるだろうが、今回はあえて避けたい。

しかしウルトラマンシリーズ当初では、敵自体は人間が生み出したものであった。内部性を保った存在だったのである。この不一致こそが、むしろ外部性への純化をもたらし、外部からやってきたウルトラマンが、外部からやってきた怪物を倒す、という構造が出来たのではあるまいか。無論、それだけでは、地球人とは全く関係ない外部の出来事になってしまう。これを地球につなぎ止める役割を果たしているのが、ウルトラマン科学特捜隊に始まる地球人の助力者の系譜であったと思う。

仮面ライダーではどうだろうか。いずれのシリーズも、基本的には内部の人間が仮面ライダーになる。しかし、初代仮面ライダーがそうであったように、仮面ライダーは内部の人間にはなりきれない。常に半身外部に接しており、内部と外部の境界、人間とも怪物ともつかないところに位置する。

であるからこそ、仮面ライダーシリーズではまま、作中において人間から仮面ライダーが疎まれるような部分が描かれる。仮面ライダードライブであれば指名手配を受けるシーンであり、仮面ライダーゴーストであれば「一度死ぬ」という設定自体がまさしくそれであり、仮面ライダーエグゼイドでは仮面ライダークロニクルがそれに当たる。

ここにおいて、一応、私個人の特撮における外部性と内部性の論考は完成した。それ以後、それを更に進める形で、いわば「仮説」と言うべきものが成立した。それを脳内に留めておくにしては、私の海馬はいかにも頼りないので、今回は備忘録的にそれを更に深めたい。

「外部」とは

特撮における外部とは何か。それは怪獣・怪物である。あくまでこうした作品群が子供向けである以上、それは物理的に分かりやすくなっている。例えばウルトラマンシリーズがそうだ。まだこれについて全ての作品を視聴できているわけではないのだが、少なくとも初代ウルトラマンでは地上のどこかに眠っている怪獣が目覚めるというパターンが多かった。ゴジラの系統と言うことができるだろう。しかしそれが、少なくとも平成の作品では、宇宙から怪獣がやって来るというパターンが多くなった。これが外部性が強化され、視覚化されているということが出来るだろう。

この外部と内部、つまり普通の人々を接続する存在として、ウルトラマンシリーズでは基本的に理解者が欠かせない。例えばそれが科学特捜隊に連なる助力者組織である。この人々がウルトラマンと普通の人々の中間に存在することで、ウルトラマンが、全く正体の掴めない不思議な存在ではなくなり、救世主的な立場が確固としたものになる。

さて、仮面ライダーではどうだろうか。そもそも仮面ライダーは正義の味方ではない。ライダー自身が正義の味方でありたいと努力する場合はあっても、それを妨げるようなメカニズムが働くのだ。

仮面ライダーは上の引用の通り、外部の存在ではない。しかし単純な内部の普通の人々とは違う。外部に肉薄する、異質な内部の存在であり、そんな彼ら、つまり内部の周縁にいて、そこを外部に落ちてしまわないように、正義的な行為を続けなくてはならない。

恐怖と外部

そんな外部と内部である。それは特撮におけるメカニズムの中でどのような役割を果たすのか。

そこで出て来るのが「恐怖」ではあるまいか。

つまり内部の人々は、外部のものと接するときに恐怖を感じる。なぜか、それは外部の存在は、行動原理が分からないからだ。そのため、ウルトラマン仮面ライダー・戦隊ヒーローにしたところで、その作品群には「実はいい奴」みたいな怪獣や怪物がよく登場する。つまり、外部と内部の境界は自明のものではなく、容易に融解し得ることを指し示しているのではないかと思う。

さて、そうなると本来はウルトラマンにも人々は恐怖を感じなくてはならないのではないか。それを解消するのが上述の通り、助力者組織である。

こうした具合に、特撮における悪とは、人々に害を及ぼすということよりも、行動原理の掴めない外部の存在であるという事項が優先されるのだろう。

内部と外部の接続性

さて、軽く触れた通り、特撮における特徴は「外部と内部の境界は自明のものではない」という所だと思う。

アメコミのヒーロー作品にはそれほど明るくないが、あの作品とは、外部の存在だと思われたヒーローが内部に地位を獲得するまでを描いているのではないか。

日本の特撮では、その外部と内部という境界自体を揺らがせる。敵は敵に見えるが、なぜこの敵は敵なのか。ヒーローはヒーローに見えるが、なぜヒーローだと感じるのか。それを揺らがせるのが日本の特撮の特徴である。

以上が現状での、特撮における外部と内部についての「仮説」である。思いついたままに書いたので、重複も多いだろうと思うが、あくまでこれは備忘録であるから、この散乱っぷりと乱文っぷりは気にしないことにしたい。

「宇宙戦隊キュウレンジャー」について現時点での考察

本作品については、二度以降繰り返してこの作品を見るつもりはない。であるからタイトルに「現時点での」とあっても、これが恐らく最終的な考察になるだろうと思う。

さて、特撮には、特撮を知らない人から突っ込まれるようないくつかのポイントがある。ウルトラマンと、仮面ライダー・戦隊ヒーローではやや異なるが、後者ではこうである。

変身している時間なんてあるのか、なぜ最初から技名を知っているのか、そんなラッキーなことが続くものか。

いずれも、特撮を厳格に分析している者でも答えづらい問いである。「変身している時間なんてあるものか」については、「敵が気づかぬほど素早く変身している」という設定であったはずだが、それにしては戦隊ヒーローなどでは名乗りがあったりして、理解し難い。「なぜ最初から技名を知っているのか」については、もうそれはそういうものだから、と答えるより他にない。そして、「そんなラッキーなことが続くものか」。

この問いには妥当な理由がある。つまり、ヒーロー自身が強くなるためには、強い敵と出会い、挫折する経験をしなくてはならない。だからといって、挫折してやられてしまうとそこで話は終わる。そこで敵は、なんらかの理由をつけてヒーローを倒すことを止めなくてはならない。そこが「ラッキー」に見えるのだ。

さて、その「ラッキー」を逆手に取ったのが、このヒーローだったと思う。

「9人で救世主、キュウレンジャー」最後は12人であったが、黄道12星座と相まって、いかにもな展開であり、「キュウ」は「キュウ世主」と「球」に生き続けた。そこに不自然は無い。

もし彼らに不自然な幸運が訪れた時、ラッキーはこう叫ぶはずだ。「よっしゃラッキー!」

このセリフ自体には2つの意味がある。1つには、どんな小さな出来事をも「ラッキー」と呼ぶことで、いかにも凄いことであったかのように思わせるということ。2つには、どんな苦境にいても、それを「ラッキー」と呼び変えるということ。この2つは、似て非なるものなのだ。そして、本作においては後者が象徴的であったと思う。

もう一つ言うならば、この作品は、ある点で特徴的であった。それはメンバーの中に端から何らかの着ぐるみを着た仲間がいた点である。

実はこのメンバーを覗くと、生身の人間のメンバーは7人であり、例年より特に多いということはない。ただ、それ以外のメンバーが、宇宙と言う設定を借りながら、宇宙人やロボットと言う設定で登場すること、そしてそうしたキャラクターたちが何の区別もされず共に戦うこと、これには意味があるだろうと思う。

昨年、「ハリー・ポッター」シリーズを好む人々はマイノリティへの理解が進んでいる、との調査結果があったように思う。もちろんこれが因果関係によるものなのか、もしくは単純に相関関係を保つだけのものなのかは分からない。つまり、「ハリー・ポッター」からマイノリティへの理解を学んだのか、マイノリティに理解を示すような人々が「ハリー・ポッター」を好んだのかは分からない、ただそういう相関関係がある。

私はその現象よりも、このキュウレンジャーの方が好ましく思う。この作品内ではロボットや宇宙人はマイノリティとしてすら扱われず、あって当然、だからなんだという姿勢で受け止められ、最終回ではラプターのスパーダへの恋愛感情があからさまに描かれる。しかし、だから何だというのか。それを認めないような区別・差別の意識は不要のはずなのだ。

さて、この作品でゲキレンジャーから数年ぶりに戦隊ヒーローに復帰した私であるが、概ね変わらないところと、その新しさに感慨を抱いてばかりだった。そうした作品に、不意に出会えたことについて、やはりこう言うのが良いだろうと思う。

よっしゃラッキー!