ルパパトを全力で褒めたたえたい

ルパパトの最終回を見て、少し涙し、この作品が素晴らしかったと思った。

ただ言語を喪失して「素晴らしい」「ヤバい」「すこ」と繰り返していても何も生まれないので、少しずつ言語化してみたい。

 

まず、パトレンジャーが強化されなかった件。

確かにテコ入れなのかもしれないけれど、最終的に金庫の中のルパンレンジャーの助けを必要としたけれど、それでもこれでよかったと思う。

何よりパトレンジャーは「警察」だから、別に軍隊みたいに「強化」される必要はない。

「警察」の装備は敵よりもずっと弱いかもしれないけれど、でも彼らの目的は強くなることではないし、ましてや戦うことでもない。

だから彼らが戦って勝てないとしても、だから彼らが強化されるべきではない。強化しなければ倒せないのだとすれば──「倒す」というのがすでにおかしいのだけれど──それはもう「警察」の本分を逸脱したということであって、別に強化されるべき理由にはならない。

 

最後のシーンなんか素晴らしかった。

結局ルパンレンジャーとパトレンジャーのいたちごっこはいつまでも続くのだ。

けれど、お互いの正体を知った今の彼らの戦いは、もう単なる警察と指名手配犯の戦いではない。

まさしく、ルパンと銭形のそれだ。

好敵手と化した二つの陣営は、きっとこれからも戦い続ける。それはいつまでも続くはずだ。でもその日常がきっとたまらなく楽しい(そんなことを言っては不謹慎だが)。

 

ルパンレンジャー一同を救うために、彼らが命を賭けても守ろうとしていた、兄や、恋人や、友人が、今度はそれぞれの弟や、恋人や、友人を守るために怪盗になる。

それは残念なことかもしれないけれど、良かったと思う。

「君の命を救うために怪盗になった」と言うと、今まで同じ地平に立って笑い、泣き、悩んでいた彼らが、「助けてあげた」「助けられた」という関係のなかでアンバランスになってしまう。

けれど、結局お互いがお互いを助けることで、そんな関係はチャラになる。再び同じ地平に立って、笑い、泣き、悩むことができる。

 

結局、どの登場人物も、他の戦隊モノとは比べられないほどに魅力的だった。

それはどのキャラクターも、お互いを引き立てあっていたから。

別にレッドだけが魅力的だとかではなくて、それぞれが何を考えていたのかがきちんと描かれていた。

 

こんなに素晴らしい戦隊モノを魅せられてしまったら、この先が辛い。

ただ、アニメ「銀魂」のタイトルから(マンがにもあるのかもしれない)。

──新しく始まる戦隊モノは最初はこんなの認めねェみたいになっているが最終回の頃には離れたくなくなっている

ルパパトは何かを誤ったのか

快盗戦隊ルパンレンジャーVS警察戦隊パトレンジャー」は当初2つの戦隊の対決、ということで注目を集めた。

この手の新たな挑戦は言わば「宇宙戦隊キュウレンジャー」にも見られたもので、単純に好ましいと思う。「仮面ライダー」シリーズがリバイバル重視になってきている一方、今後の戦隊モノの可能性を模索し続ける姿勢は評価されて然るべきところだろう。

一方、今「ルパパト」と検索すると「テコ入れ」と出て来たりする。どういうことかと言うと、どうやらパトレンジャーに与えられていた武器がルパンレンジャーに流れたりして、グッズの売れないパトレンジャーから比較的売れるルパンレンジャーへの比重の変化が露骨に見られるからだという。

その検証は他に譲るとしても、実際そうだろう、つまり警察側が怪盗側に比してあまりに強化されていない、という感覚はある。

朝加圭一郎とは何なのか

「パトレンジャーのグッズが売れない」というのとはかけ離れているように思われるが、毎週のようにTwitterを賑わすのは「朝加圭一郎」という文字であり、場合によってはトレンド入りすることも多い。

この空前の「朝加圭一郎ブーム」とでも言うべき状況を的を得た表現で言い表しているのが次の記事だと思う。

www.jigowatt121.com

自分自身、朝加圭一郎の「魅力」について考えてきたが、しかしそれが具体的にどういった要素なのか、ほとほと分かりかねるところがある。もはやこれは「朝加圭一郎」を一種の「概念」と見なすより他にない。

実際Twitter上ではこの「朝加圭一郎」が形容詞的に用いられている(厳密に言えば形容動詞的に、ということになるが)。「これぞ朝加圭一郎」などというとき、そこにあるのは「概念」としての「朝加圭一郎」にどれほど近いか、ということである。

この記事の中を見てみよう。

 

〔前略〕多くのフィクション作品で観てきた「直情型の熱血男」の属性を確かに持ちつつも、多様性を素で受け入れる懐の深さや、他者を無意識に尊敬し接する慎ましさというのを、この男は兼ね備えているのだ。泥臭くとも律儀。暑苦しくても柔軟。

「融通が利かない堅物」なキャラクターは王道だし、それはそれで警察戦隊のレッドとして間違いがない。ルパンレンジャーを正義の名の下に追い回す存在として物語を回すことができるし、「愉快が利かない」をコメディシーンに活かすこともできる。

しかし朝加圭一郎は、通常そういうキャラクターが持つ「融通の効かなさ」を、「不器用さ」とほのかな「鈍感さ」に置き換えている。〔中略〕

もはや「朝加圭一郎という服を着て歩く朝加圭一郎」としか言いようがない。

これは、『ルパンレンジャーVSパトレンジャー』の物語そのものの組み立て方にもあるのかな、と。

戦う動機として、圧倒的にルパンレンジャー側に(ドラマ的な)利があるので、パトレンジャー側が物語の比重として弱くなる可能性がある。そのため警察側は、朝加圭一郎をはじめとするキャラクターの魅力で物語を引っ張る作りになっている。

ドラマで物語の縦軸を構築するルパンレンジャーと、キャラクターで物語の横軸に緩急をつけるパトレンジャー。このふたつの面白さが交互に描かれるので、毎週30分番組とは思えない充足感がある。

パトレン1号「朝加圭一郎」という概念、及びキャラクター造形の絶妙なバランスについて - ジゴワットレポート

 この指摘が秀逸なのは、「概念」とまで化した「朝加圭一郎」というキャラクターを、ストーリー自体の可能性として読み解いている点だろう。

しかしなぜグッズは売れないのか

ストーリーには朝加圭一郎が不可欠だ、というのが先の引用から読み取れることだろう。確かにパトレンジャーの「正しいらしいことのために誤ったことをしなくてはならない」というジレンマを相対化するために、「正しいことを貫く」というパトレンジャーの存在は必要なのだろう。それにパトレンジャーには正体を隠さなくてはならない、というのも物語に大きな役割を担っているはずだ。

しかしグッズは売れない。なぜか。その答えは先の引用それ自体にあるのではないか。

つまり、「朝加圭一郎を見ているのは大人ばかりだから」ということになる。

朝加圭一郎というキャラクターはそれ自体、物語の進行に資するところがある。また、ルパンレンジャーの闇のようなものをよりハッキリとさせる光のような役割も担っているだろう。

例えば「仮面ライダー」シリーズは平成2期ではヒーローの光と影のどちらかを描いてきた。そのどちらをも描くことは、根本的に不可能だったからだ。

しかし本作、ルパパトでは闇を描こうとし、その陰影をはっきりとさせる光としてパトレンジャーが置かれる。そのとき注意を引くのは闇としてのルパンレンジャーだろう。

もちろん、ある程度年齢を重ねた人、特撮を見慣れた人であれば、一見注意を引かれるルパンレンジャーを一端差し置いて、パトレンジャーに目をやることができる。しかし主におもちゃを、グッズを買う──もとい〝ねだる〟──であろう子供達にそれはあまりに難しい。

子供達の中でこの物語は、例えパトレンジャーがいなかったとしても、ルパンレンジャーの物語として成立し得てしまうのだ。

「警察」は魅力的ではないのか?

しかし「警察」というのは子供に人気じゃないのだろうか、というのは当然の疑問だと思う。実際「特捜戦隊デカレンジャー」の場合はそれなりに人気だったように記憶しているし、その指摘もあながち的外れとは言えまい。

この「警察」がそれほど魅力的に見えないのは、そもそも「警察」が魅力的であるから、という逆説的な理由によるのではないだろうか。

私たちは「警察」が何をしているか知っているし、よほど悪い思い出が無い限りは彼らが一般に正しいとされる「正義」を司っているのだろうと認識する。言ってみれば何もしなくてもヒーローなわけで、それをそのまま切り取ったパトレンジャーは「なぜヒーローでなければならないのか」という正当性が薄い。

デカレンジャー」の場合は宇宙だの何だのと、私たちの知っている「警察」を土台に、「そうではない警察」を描くことで、それをヒーローとして魅せる必要があった。しかしパトレンジャーが「国際警察」であるからと言ったところで、それを改めて「ヒーロー」にして見る必要は感じられない。

一方ルパンレンジャーは、と考えれば、こちらは何といっても「怪盗」であるからして、「ヒーロー」となる必要がある。さもなくば彼らは「犯罪者」だからだ(もちろん「ヒーロー」であっても「犯罪者」なのだが)。この点は先の引用で「ドラマ的な利がある」と表現されていた部分だと思う。しかしあえて言えばこれはパトレンジャーに「ドラマ的な利が無い」という問題にも直結する。

どこへ行くのか

最後のまとめとして、期待して話の自分なりの結末を書いて、「こうなればいいな」と言ってみるのは簡単、なのだが、ここで容易に予想されるような結末は、結局陳腐なものになるはずだ。

であるからして、およそ想像もつかないようなエンディングを期待している。

おそらく近いうちのルパンレンジャーの正体がパトレンジャーにバレることになるだろう。しかし肝心なのはそこからだ。つまりパトレンジャーはルパンレンジャーにどのような思いを向けるのか、を、どのように描くのか、である。

結局それはルパンレンジャーに資することになるだろうし、ルパパトを見ている小さなお友達のルパンレンジャーへの見方に影響を及ぼすことになるのだろうが、もしかするとそこで「パトレンジャー、やるじゃん」と思うような子供達が出て来るかもしれない。今はそこに期待するより他にないと思う。一人の「朝加圭一郎」という概念に魅せられた者として一人でも多くの子供がはたとパトレンジャーの魅力に気が付くことを祈っている。

『仮面ライダービルド』の備忘録

仮面ライダービルド』について、この作品が最終回を迎えた時に、自分が何を思い、何を考えたかの記録としての備忘録。映画は見ていないので、要するに本当のエンディングを見ていない? と言い始めると、はっきり言って仮面ライダーについて何か決まったことを言うのは無理。数年後に映画で掘り起こされたりするわけだし。

放送開始時点では、フォルムが『仮面ライダーW』そっくりだって言われたりしていたわけだけれど、それは当然で、どうやら『ビルド』自体が『W』の際のボツ案からできたらしい。となるとかなり嫌な予感もしていたのだが、『W』の焼き直し、となる危険だけは回避出来ただろうと思う。

さて一方で、特に平成ライダーの系譜とは「仲間」の系譜であると言っていい。当初は仲間を信じず殺し合っていたようなライダーは、時代を経るにつれて「仲間」を重んじ始めた。

もちろんそちらのほうが分かりやすい。その集大成は、学園の生徒全員と友達になることを目指す『仮面ライダーフォーゼ』の如月弦太朗で一応の集大成を迎えたと言えよう。けれど、それは本質なのか?

『フォーゼ』以前2作を考えたい。『W』では左翔太郎とフィリップが、一人として変身する。これはもう「仲間」とかいうレベルではなく、まさしく一心同体。『仮面ライダーオーズ』では、火野映司とアンクは、一応密接不可分である。

仮面ライダーにおける「仲間」とは、いわば友達を増やす、といったような方面にではなく、むしろ、(仮面ライダーとしての)自己を拡張するというような方向に伸びていく。

もしかするとそれはヒーローの必然なのかもしれず、『ウルトラマンメビウス』の終わりとは、まさしくウルトラマンメビウスの拡張であったわけだから、これが特別に珍しいというわけではない。

では、仮面ライダーを変身者以上に拡張すること、一緒に闘ってくれる友人を増やすこと、その間はないのか?

その探索は、例えば『仮面ライダードライブ』でも見られたはずだ。泊進之介とベルトさんは、当然一心同体として変身する。しかし、それでいて良き友人である。そのためか、最後の泊進ノ介とベルトさんの別れは、「変身できなくなる」という仮面ライダーとしての存在論的側面よりも、「友人と離れ離れになる」といった感覚が近い。似たところで言うと、アニメ映画版の『時をかける少女』だと思う。

しかしその後、『仮面ライダーゴースト』はやはり友人の拡張だったし、『仮面ライダーエグゼイド』も然り。その中にあって『ビルド』はどうか。

要するに桐生戦兎と万丈龍我の話をしたい。

万丈からすると、戦兎は、自らに冤罪を着せた張本人だと思われた。しかし最終的には万丈は戦兎に信頼を寄せ、共に「愛と平和のために」戦う。

「愛と平和のために」って、最終回を24時間テレビの裏番組として迎えたとは思えない、つまらないジョークみたい。

私は常々、仮面ライダーシリーズに向けられるべき命題とは、「正義とは何か」ではなく「ライダーはなぜ戦うのか」であると感じている。「正義」という、真善美の領域に属するようなことを扱うわけにはいかないし、所詮そこにある「正義」は脚本家にとっての正義でしかない。正義の相対性を言いたいのではなく、不確実性が問題となる。非絶対性などという言葉があるなら、それでもいい。

さて、では『ビルド』は「なぜ戦うのか」?

本当に「ラブアンドピース(愛と平和のため)」?

と考えてみると、畢竟、「仲間のため」のように思われる。

「仲間のために戦う」と言うと、なるほど陳腐なヒーローものか、と思われるかもしれないが、実は仮面ライダーにはその手の話が少ない。

というのは、仮面ライダーが戦う対象は、『W』の「風都」、『フォーゼ』の「学園」、『ドライブ』の「市民」といった形で、緩やかに幅が与えられ、抽象化されることが多い。一方『ビルド』については、ちょうど都合のいい指摘があるので、引いておきたい。

もちろん、『ビルド』の核は、戦兎と万丈の関係性にある。創られた空っぽの人間・桐生戦兎のアイデンティティ形成において、万丈は欠かせない。そんな万丈も、戦兎に明日を創ってくれた恩義を感じている。「互いに互いが必要」という、ブロマンスにも片足踏み込むかのような濃い友情物語が、間違いなく『ビルド』の真髄だ。

感想『劇場版 仮面ライダービルド Be The One』 戦兎の今と巧の過去が交差する「桐生戦兎の物語」 - ジゴワットレポート

 「友情」なり「仲間」なりを繰り返し描いてきた仮面ライダーも、そのために戦う、とまでは踏み込まなかった。「踏み込めなかった」と言ってもいい。それは恐らく、そうしてしまうとヒーローが「利己的な」「エゴイスティックな」存在に堕ちてしまうように思われるからではないだろうか。

しかし、よくよく考えてみれば、仮面ライダーは畢竟「正義のヒーロー」などではない。

仮面ライダービルドにせよ、仮面ライダークローズにせよ、彼らは「愛」だの「平和」だのを掲げながら、エゴイスティックにお互いのために戦う。「お互いのため」? むしろそれは、「自己本位」でしかない、「自分のため」でしかないのではないか。

仮面ライダービルドが何のために戦っていたのか?」──この問いは、存外に難しい。ではこれではどうだ? 「仮面ライダービルドは、何をビルドし(作り上げ)たのか?」

結論は「新世界」ということになるだろう。

戦兎は独り言ちる。「今度は俺しか記憶がないのか。」しかし、現実にはそうではない。

この物語とは、仮面ライダーが戦い私たちの世界を新世界にし、それによって私たちが10年分の記憶をすり替えられてしまった世界の物語、などではない。

この物語とは、私たちの世界について、あったかもしれない物語を、戦兎と万丈が語る物語であって、この点については最後に自己言及がなされている。

『ビルド』は、自己言及によって第1話と最終話が輪のようになることで、閉鎖した物語となった。しかし本来仮面ライダーシリーズは、「変身できなくなる」という形で閉鎖することが多いが、「閉鎖する」という点では仮面ライダーらしい。

さて、ここまで言って根幹を揺るがしてみよう。というのは、果たしてこの物語は「物語」だったのか? という点である。

先の甲子園で、優勝したのは大阪桐蔭だったが、多くの人々の「記憶」に残ったのは準優勝に終わった金足農業だろう。これは「大阪桐蔭だって頑張ってる」とかいう話ではなく、きっと仕方がない話だ。

私たちが金足農業を「記憶」し続ける限り、それは続く、かもしれないが、私たちがそれを「忘却」してしまったら? あるいは、私たちがみんな死んでしまったら?

残るのは「記録」であって、優勝の大阪桐蔭は「優勝」と「記録」されるだろうが、準優勝の金足農業はあくまで「準優勝」以上には「記録」されない。

何が言いたいかというと、歴史を作るのは「記録」なのか「記憶」なのか、ということであり、そして『ビルド』とは「物語」である以上に、「歴史」であったのではないかということである。

仮面ライダーを「歴史」にまでステップアップさせた、という点では、この作品は特異だろう。そうなると「人類の歴史は戦争の歴史」というのが、『ビルド』においては特に響く。

うがった見方をすると、『ビルド』は、戦兎と万丈が世界で二人だけになる物語だったのかもしれない。そこにおいて、それ以外の「仲間」は──もちろんヒロインであっても──そこからは排除される。「ブロマンス」とこれを呼んでも間違いではないだろうし、「ホモソーシャル」とも呼べるかもしれない。

さて、その時思い出されるのは、やはり『W』である。

『ビルド』は、『仮面ライダージオウ』が次に控えているとしても「平成2期」の終わりとして、曲がりなりにも有終の美を飾ったと思う。「平成2期」が『W』に始まり、『ビルド』に終わる、ということに、感慨を覚えずにはいられない。

『仮面ライダーW』における家父長制の崩壊

はじめに

2009年6月から2010年5月まで放送された『仮面ライダーW』は、「仮面ライダー」シリーズにおける平成2期のスタートを飾る作品であった。平成2期については、次のように記述したことがある。

「平成2期」は、一度〝総括〟が行われた「平成1期」からの連続性は担保されつつ、そこにオリジナリティを加えなければならないという問題意識の中で、かつ〝商業主義〟という側面も強調されてくる。この〝オリジナリティ〟は、例えば特撮経験のない脚本家に脚本を担当させたり、あるいはそのフォルムにユニークなものを採用することで発現される。

入門「仮面ライダードライブ」論 - 特撮の論壇

 『W』の脚本家は三条陸であり、突飛な人選とは思えないが、何より「2人で1人の仮面ライダー」という設定は、実はいかにも「平成2期らしい」のではないか。

今回は、そんな『W』を「家父長制」という観点から分析していきたい。

仮面ライダー」と家父長制

家父長制について、『日本国語大辞典』では次のように説明している。

(1)父系の家族制度において、家長がその家族全員に対して支配権をもつ家族形態。奴隷制社会、封建制社会にみられる。

(2)家父長制的家族のイデオロギー、およびこれを原理とする社会の支配形態。家長制。

"かふちょう‐せい[カフチャウ‥]【家父長制】", 日本国語大辞典, JapanKnowledge, https://japanknowledge.com , (参照 2018-08-10)

ちなみに、家父長制と「仮面ライダー」の関わりについて、次のように記述したことがある。

仮面ライダーWの変身者は2人いるが、その一方であるフィリップの父親は、実は敵のボス・園咲琉兵衛なのであって、敵を倒すことはたちまち父を殺すことと繋がる。もちろんこの観点から『W』を見る際には、この物語自体が、鳴海探偵事務所という意図的に構成され拡張された「家族」と、ミュージアム=園咲家といういわば伝統的=家父長制的な「家族」が対立し、最終的には前者の「家族」が勝利する、言い換えれば、家父長制が敗退するという観点を忘れてはいけない。

「父」と仮面ライダービルド - 特撮の論壇

 この記事に記してあるとおり、「仮面ライダー」における「親殺し」という命題は、実際には家父長制に接近する可能性を持つのである。

家父長制と拡張される家族の対立

『W』の構造を端的に言えば「ミュージアム」と呼ばれる組織を統率する園咲家と、鳴海探偵事務所の対決と言い換えられる。園崎家の方が、いわば家父長制的な、もしくは封建的な理想の「家族」ということになるが、一方鳴海探偵事務所はどうか。

この鳴海探偵事務所は、左翔太郎・フィリップ・鳴海亜樹子という、まるで関わりのないような3人が、物語終盤にかけて「家族」を構築していく。実際それが、家族との間で揺れ動くフィリップを支えることになるのである。

すなわち、鳴海探偵事務所では「家族」が拡張されていると言っていい。

この「家族」の拡張というのは、普遍的なテーマでもある。例えば、映画『そして父になる』、(漫画は読んでいないのだが)映画『海街diary』、映画『万引き家族』がそうであったりするわけだし、「実は血がつながっていない子ども」と本当の家族以上の仲を築く作品には、誰しも心当たりがあるだろう。

実は、最も簡単に家族を拡張する方法というのは、「結婚」である。同じ「仮面ライダー」シリーズで言えば、同じ三条陸脚本の『仮面ライダードライブ』が、泊進ノ介と詩島霧子の結婚によって、霧子の弟である仮面ライダーマッハの変身者の剛とも義兄弟の関係を結ぶ。他にも「ハリー・ポッター」シリーズでは、ハリー・ポッターハーマイオニー・グレンジャーが結婚するのではなく、ジニー・ウィーズリーが結婚し、ハーマイオニー・グレンジャーの方はロン・ウィーズリーと結婚することで、最終的に登場人物のほとんどが「家族」になる。「ハリー・ポッター」シリーズでは、ハリー自身が母の「愛」という魔法によって守られた、という設定上、「家族」は並々ならぬ意味を持つ。

拡張される家族と家父長制の対立は、例えば、園咲冴子が結婚に失敗する、というところに現れている。即ち、「園咲家」は決して拡張され得ないのである。

鳴海亜樹子が最後に照井竜と結婚する。それは左翔太郎とではない。それは鳴海探偵事務所は疑似家族なのであって、家族内で結婚はし得ないからなのだ。

家父長制の敗北

本作は家父長制の敗北で物語が終わる。それは、園咲家が火に包まれる、というだけの話ではない。

園咲琉兵衛は死ぬが、園咲若菜は生き続ける。彼女はミュージアム、ひいては園咲家の再興を目論むが、それはうまくいくはずがない。なぜなら「彼女が女性だから」である。女性である若菜には、家父長制の再興などできないのである。

園咲家の将来が託されたのは、結局男子のフィリップであった。そして同時にフィリップは、拡張された擬似家族=鳴海探偵事務所のメンバーであり、そのフィリップが左翔太郎と2人で1人の仮面ライダーになる、という段階で、家父長制は終わりを迎える。やや大仰な言い方をすれば、家父長制は仮面ライダーに変身することによって、去勢されるのである。

まとめに

『W』において、家父長制は崩壊する。それは園咲家に象徴され、勝利するのは、拡張された擬似家族である鳴海探偵事務所なのである。そして園咲若菜が園咲家の想いをフィリップに託すことで、家父長制の敗北は決定的なものとされ、鳴海探偵事務所はついに園咲家に勝利を収めるのである。

付論

『W』の語り手は判然としない。毎回最後に、翔太郎がタイプライターに向かって、ローマ字で報告書を仕上げるシーンが挿入される。私たちは、もしかすると翔太郎の報告書を読んでいるのかもしれない、という状況で、この物語を「読む」のである。

その点について、次の言葉を引いておきたい。

それでは今から、私は書きはじめ、あなたは読みはじめる。お互いに、古代のローマ人はどういう人たちであったのか、という想いを共有しながら。*1

長いシリーズの中で、どんな英雄の逸話よりも、深く感動を与えた塩野七生ローマ人の物語』の冒頭である。

「今まさにこれを書いている」ということを明らかにすることによって、「書く」瞬間と「読む」瞬間が一致し、それがともに経過していくような感覚を覚える。これはレッシングが『ラオコオン』中で文学を「時間芸術」としたこととも無関係ではあるまい。

*1:塩野七生ローマ人の物語1 ローマは一日にして成らず[上]』(新潮文庫、2002年)なお、初出は単行本(新潮社、1992年)

『仮面ライダードライブ』における「自己否定」のあり方について

はじめに

仮面ライダードライブ』をはじめとする平成2期について、かつて以下の通り指摘したことがある。

仮面ライダー」について知った顔して語る上では避けられないのが、『ユリイカ』中における白倉伸一郎氏の発言。即ち、仮面ライダーには「同族同士の争い」「親殺し」「自己否定」という要素が含まれるという考え方である。 これは初代仮面ライダーが敵組織ショッカーの、いわば出来損ないであるところから発生した考え方であるが、自らもショッカーの一員となるべくして作られたもののショッカーと戦わなくてはならないという「同族同士の争い」、自らを生み出したのがショッカーであることから「親殺し」、さらにショッカーを滅ぼすことを至上命題とすると、最後には自分さえも滅ぼさなくてはならないという点で「自己否定」という要素があるとされる。 平成2期になり、商業主義的側面が強化されていく中で、「同族同士の争い」は作品によってはかなり希薄化していった。さらに「自己否定」については、ほとんどの作品を除いて、特にここ数年来では描かれていないと言って構わないだろう。

「父」と仮面ライダービルド - 特撮の論壇

 今回は、この記述の訂正をしたい。と言うのも『ドライブ』における「自己否定」のあり方の可能性を見出したためである。

平成2期における「自己否定」

仮面ライダー」シリーズ平成2期における「自己否定」は、ほとんど取り扱われてこなかった。しかし、それは必ずしも「全く」ということではない。

本来『仮面ライダー』においては、「自己否定」とは、ショッカーを倒すことは、ショッカーによる改造人間である自分を敵と見なすことになる、という意味合いを持つ。少なくともその後改造人間というモチーフが取り上げられなくなると、この「自己否定」は、敵とライダーの能力の根源の通底という形で現れた。

例えば、『仮面ライダーオーズ/OOO』においては、変身に必要なコアメダルは敵の本体であり、敵を否定するためには、自分の変身すら最終的には否定しなくてはならない、ということになる。

ただしこれが「自己否定」を貫徹したと見なすことが難しいのは、敵グリードはコアメダルだけでなくセルメダルがなくてはならないため、コアメダルの論理だけでは完全な「自己否定」とはなり得ない点である。

この点は、主人公の火野映司が、当初は無欲な人間でありながら、戦いを通じて「欲望」を知る。それでもなお「欲望」を否定しきれない、という葛藤を「自己否定」に仮託する。

『ドライブ』と同じ三条陸による脚本の『仮面ライダーW』において、最後は「変身するとフィリップが消えてしまう」という設定を持ち込むことによって、この「自己否定」を成し遂げた。このガイアメモリの数が、おそらくアルファベットの個数を最大数とするのだろうという想定によって、その後仮面ライダーWが変身できなくなる可能性は示される。

『ドライブ』において

『ドライブ』における「自己否定」は一般的にどのように表現されるのだろうか。ここでは2点を提起しておきたい。いずれもその根底にあるのは「科学」である。

第一に、「非人間」と置き換えられるような「科学」は仮面ライダーたちにも、ロイミュードたちにも通底する。なぜなら仮面ライダーは科学の力を使って変身し、限りなく人間から乖離した存在でありながら(特にドライブは、ベルトさんと変身する上に、タイプトライドロンでは人格がベルトさんに乗っ取られさえする)、人間のために戦うのであり、ロイミュードは科学的に製造された存在でありながら人間に近づきたいのである。

つまりロイミュードの「非人間性」あるいは「科学」を否定すれば、それはそのまま仮面ライダーを否定することになってしまい、一方、その「人間性」を評価すれば、それが欠落する仮面ライダーが否定されてしまう、という「自己否定」が用意されているのだ。

第二に、泊進ノ介が最後にベルトさん(クリム・スタインベルト)の思惑を察するシーンである。つまり、泊進ノ介は最後の戦いを「ベルトさんと別れることになるだろう」という予感と共に戦っていたのである。戦いに勝つと仮面ライダーには変身できなくなる、という「自己否定」が伴っていたことになる。

ドライブ以外のライダーについて言えば、仮面ライダーチェイスはその存在を犠牲にして蛮野と戦ったのだ。

この予感は『W』と同じではないか、と思われるかもしれないが、そうではない。『ドライブ』においてはロイミュードの数は108と明言され、その108を撲滅することが主人公たちの至上命題なのである。その108が終われば、自然、変身できなくなるかもしれないという予感はこの作品を包み込んでいる。それを泊進ノ介は確かに感じており、それは何より、泊進ノ介とベルトさんの友情がもたらした感覚である。この点で、実は『W』よりも「自己否定」は発展的に描かれているのである。

おわりに

仮面ライダー』における「自己否定」は確かに重要な要素でありながら、まるで忘れられて来たかのような感覚さえある。しかし『ドライブ』においては、「自己否定」は確かに生きていたのである。

「ヒロイン」と仮面ライダービルド

 『仮面ライダービルド』に書くのは、第三弾になる。

実際には『ビルド』を通して、「仮面ライダー」シリーズの平成2期を、ひいては特撮全体を俯瞰しようという試みでもある。

第一弾の「「父」と仮面ライダービルド」冒頭にも少し書いたが、この「父」「国家」「ヒロイン」というテーマは、いずれも家父長制的な、いわばフェミニズム的な視点からは共通している。

「国家」というものが、訳語の示す通り、まさに「大きな家族」として存立し、その中で我々は「父」の姿を認める。その中にあって「女性」の持つ、或いは果たしうる役割は極めて限定的であって、いずれも実際には密接不可分に連関しているはずなのである。

少女はヒーローになれるか

仮面ライダーは、女児に参加可能性が開かれていない点で極めて閉鎖的なヒーローである、という点は、そのほとんどが、想定する視聴者が男児であって、特に性差に意識が向きだす彼らは一種ミソジニー的な感覚を持ちうる、というところから説明が可能であろうと思う。

少女がヒーローに変身できた試しはかなり少ない。記憶に残る限りでも『仮面ライダーフォーゼ』における仮面ライダーなでしこであるとか、『仮面ライダーエグゼイド』における仮面ライダーポッピーであるとか。

この仮面ライダーたちを評価してはいけないのは、いずれも「人間ではない」ので、女児への参加可能性はあくまで閉ざされているだろうという点。なおかつ、仮面ライダーなでしこは映画にしか登場しないし、仮面ライダーポッピーは、戦闘するというより、あくまで他の仮面ライダーが登場するまでの時間繋ぎ的な役割が大きい。

では少女は仮面ライダーになれないのか。

この、いわば参加可能性が極めて閉鎖的である、というところは、実は「女の子」に限った話ではない。

平成1期が、いわば闇を抱えたダークヒーロー的に始まった。それが徐々に転換してきたものの、やはり大きく転換したのは平成2期の最初の作品『仮面ライダーW』だろう。『W』は、それまでの典型的な仮面ライダー像を「ハードボイルド」とした上で、主人公・左翔太郎を「ハーフボイルド」と呼ぶ。

この時点で、平成2期から子どもたちに対する参加可能性は一気に大きく開かれた。そのことは、平成2期が商業主義的とされ、小さなグッズを薄利多売的に売る戦略を始めたことにも象徴的である。

仮面ライダー自体がソフトな方向に傾いていく。それだけが参加可能性の担保ではない。

助力者の組織化

外部の存在である仮面ライダーは、そのままだと我々「内部」から排除されるだけの存在になってしまう。それを接続する役割を担うのが助力者である。ウルトラマンで言えば科学特捜隊がそれにあたる。

ヒロインはいわばこの「助力者」であったが、『W』以後はそれが「戦うヒロイン」の色を増してきた。

それが象徴的に結実したのが『フォーゼ』における仮面ライダー部であって、仮面ライダーすらこの一部活内に包括し、「変身せずに戦う」という形で参加可能性を担保したのである。

それが『仮面ライダードライブ』になると、ヒロインの詩島霧子は明らかに「仮面ライダードライブになりたがっていた」との描写があるし、キック力が強化される靴を与えられて「ライダーキック」をかますシーンもある。

つまり、「ヒロインも仮面ライダーになれる」という命題は、ほとんど諦めた形で、むしろハードなヒーローへ抵抗を感じていた男の子たちと共に「変身しなくてもライダーと共に」という形で子供達を広く包摂する仕組みが出来上がった。

やはりその起源は遡ると『W』における「二人で一人の仮面ライダー」という、「変身者の複数可能性」とも呼ぶべき、即ち「君たちもライダーを応援してくれ!」的なメッセージに信頼感を与えるような構造に見出すことが出来るだろう。

『ビルド』ではどうか。

さて翻って『ビルド』を考えてみると、やはりこの女の子の参加可能性が閉ざされている、という普遍性は共通するように思える。

ヒロインと言えば、石動美空か滝川紗羽になる。

美空の方は、父がエボルトに乗っ取られることで、一時的に「父殺し」の宿命を異性ながら背負わされることになる。基本的には守られるだけの存在であるが、しかし彼女にベルナージュがとりついており、彼女がピンチを救うときもある。

しかし、美空がネットアイドルとして活躍するところを、つまり「女性性」を商品として扱うところを見ると、顔をしかめざるを得ない。

一方紗羽の方も、彼女自身はスパイなわけだし、特に氷室幻徳にホテルに誘われるなど、やはり「女性」としての側面が、不必要な方向に強化されているように見えなくもない。

もちろん共通の場所で一種のチームを結成し「一緒に戦う」的な構造を持つのは違わないのだが、その細かいところには、実際にはやはり女児の参加可能性を閉ざす側面も認めざるを得ない。

まとめに

仮面ライダー」という作品群は、もしかすると戦後民主主義を背負ったヒーローなのかもしれない。特撮は、原爆を揶揄した『ゴジラ』の系譜にある。それはヒーローものにしても同じで、「ヒーローとして戦う」ながらも「平和を願う」という矛盾を、「戦わなくなったらヒーローではない」という運命と共に抱える存在として「仮面ライダー」が存立してきたはずなのだ。

しかし『ビルド』はそうではなかった。

『ビルド』には「国家」という動機付けがなされた。「親殺し」という、家父長制を否定するような仮面ライダーの命題と合わせて考えても、あまりに非仮面ライダー的な要素であった。

そのうえ、「仮面ライダー」が試行錯誤の上に築き上げてきた「変身しなくても共に戦う」という助力者のメカニズムを、一方的に守護されるだけ、或いはボトルを生産する生産者としての役割を担わされる形で破綻させてしまっている。

『ビルド』はそれ自体『W』の焼き直しの感がある。しかしながらそれだけでなく、この作品を「優れた仮面ライダー作品」として認めるのにはあまりに障害が多いと感じる。

「国家」と仮面ライダービルド

英雄と国家

英雄と書いて「ヒーロー」と読むのなら、それが自然「国家」なるものと密接不可分であろうことは容易に想像がつく。

かつて日本でも「爆弾三勇士」的な英雄が国家のために増産された過去がある。むしろ戦後はその反動かヒーローものと国家はかなり区別された形で描かれてきた。

諸外国を見ればどうかというと、マーベルコミックスの『キャプテンアメリカ』なんかに典型的に、国家のために戦う、というのがやはり一つ「英雄」の条件にある。もちろん背景には、アメリカが今なお「戦争する国」であって、国のために戦う者を英雄とする構造が社会的に生き続けているから、というのも言えるだろう。

そうなったとき、日本の「英雄(ヒーロー)」と国家の繋がりは、かなり特異なもののように思われる。

まず、特撮ヒーローものの起源を(あくまで「ヒーローもの」の)「ウルトラマン」に求めた場合、ウルトラマンは当然宇宙からやって来た語らぬヒーローである。その助力者組織としての科学特捜隊は国際機関であって、特定の国家に与するわけではない。

どのようにヒーローは国家と向き合ってきたか

ウルトラマンという存在を考える上で大切なのは、大きく2点あるだろうと思う。

第一に、ウルトラマンは圧倒的な「外部」の人間であるということだ。いわゆる戦争における「英雄」というのは、爆弾三勇士よろしく「内部」の人間が「外部」との戦いの中で「内部」のために散る、という構造を持つ。しかしウルトラマンでは「外部」ではない。ウルトラマンが何者であるかはかなり怪しく、何よりも我々「内部」の人を悩ませるのは「ウルトラマンが地球を守ってくれているのは善意に過ぎない」という点である。

例えば爆弾三勇士であれば、自分たちが死ぬことで日本のためになる、というように考えられるかもしれない。しかしウルトラマンであればどうか? ウルトラマンは「なぜか」地球を選んで地球を守ってくれているのであって、そこにはいつも不満が付きまとう。

むしろそうした存在と「内部」の私たちを繋いでくれているのが「変身者は人間である」という事実と、科学特捜隊の存在である。

仮面ライダーではどうか? 仮面ライダーの敵との距離の近さは言うまでもない。即ち「仮面ライダーがなぜ正義の味方としていられるのか」というのはかなり怪しい命題ということになる。

そのとき我々は「仮面ライダーは真っ当な人間であろうとして人間を守るのだ」という点に気が付くことで、なんとかその恐れから立ち直る。

つまり戦後の日本の特撮ヒーローとは「なぜ私たちを守ってくれるのか?」というハラハラした不安と共に、それでもヒーローがやはり私たちを守ってくれる、という構造の上にあるのであって、「国家」というよりどころ、即ち「国家のために戦う」という明確な動機は、極めて「日本の特撮ヒーロー」らしくはないと言えるのである。

仮面ライダービルド」ではどうか。

仮面ライダービルド』では日本が三つの国に分裂してしまっている、という世界観の中で物語が進む。これには『三国志』の影響やかわぐちかいじ氏の漫画作品『太陽の黙示録』の影響が指摘されているところであるが、ここではあえて深くは触れまい。

何より問題なのは、本作において、仮面ライダーが「国家のために戦う」という構造である。

当初私はこの作品における戦争の描写について次のような評価を与えていた。

平成1期には描かれていた仮面ライダーの私闘的側面は、2期には巧妙に隠されてきたのだ。 さて、そこで〝戦争〟である。 「仮面ライダービルド」における戦争は、あまりに自分勝手な動機で始まる。突然の北都・西都からの宣戦布告。圧倒的な蹂躙。どうにも理解されない。これこそ、仮面ライダーの私闘的側面が拡大されて描かれたのであり、北都との代表戦こそ象徴的にそれが再現されているのではないか。

仮面ライダービルドと戦争について - 特撮の論壇

 これは仮面ライダーでは「自らが敵と同類ではないことを証明するために戦う」という私闘としての側面が存在することを指摘したうえでの文章だ。しかしこれを書いた時点では、仮面ライダーは国家公認では戦っていなかった。

この後、仮面ライダービルド仮面ライダークローズは東都のために戦い、そればかりかあるまじきことに代表戦に出場することになる。

代表戦は戦争描写が長く続くのも困るので、この辺りで決着をつけておこう、という魂胆だったのかもしれないが、むしろ「兵器」としての仮面ライダーの側面を強調することになってしまった。

ヒーローは兵器か

考えてみれば、そもそも「仮面ライダー」なる存在は兵器ではないのか。この問いは、「ウルトラマン」「戦隊ヒーロー」に拡張しても問題あるまい。

結論から言えば、「兵器かもしれない」ということになる。

しかし問題なのは、彼らが「意図せずして」兵器になってしまっているのであって、むしろその悲哀故に「正義の振る舞いをしよう」と考えているのである、という点だ。

それが本作ではすっかり忘れ去られてしまってる。

『ビルド』では仮面ライダービルド仮面ライダークローズは自ら「東都政府のために」戦うことになる。つまり自ら「兵器」になっていく。

時代遅れの懐古趣味的な言い方をあえてすれば、「そんなのは仮面ライダーじゃない」ということになる。